彼らの祖先は日本人の主体となっている、いわゆる和人と同じように縄文人の一部を形成し、おおまかには続縄文文化・擦文時代を経て、アイヌ文化の形成に至ったことが明らかになっている。
しかし、その詳細な過程、縄文人集団から和人集団とアイヌ集団への分化過程については不明な点が多く、かろうじて、各地の地名に残るアイヌ語の痕跡、文化(イタコなど)、言語の遺産(マタギ言葉、東北方言にアイヌ語由来の言葉が多い)などから、祖先または文化の母胎となった集団が東北地方にも住んでいた可能性が高いことが推定されている。
特に、擦文文化消滅後、文献に近世アイヌと確実に同定できる集団が出現するまでの経過は、考古学的遺物、文献記録ともに乏しい。
近年の遺伝学的研究では、日本人(本州、北海道アイヌ、沖縄県の3地域を比較)の遺伝子はほぼ同じで、北アジアを起源に持つことが明らかにされ、従来定説化されてきた縄文人(アイヌ含)を南方系・弥生人を北方系とする埴原和郎の「二重構造説」は否定されている。
つまり、北アジアのバイカル湖周辺を起源に持つ集団が複数回にわたって渡来することによる遺伝的な多重構造が存在すると考えられている。
江戸時代には松前藩がおもにアイヌの人々と交易を行っていた。
当時、アイヌは和人のことを「シサム」「シャモ」と呼称していた。
シサムは隣人という意味のアイヌ語で、シャモはその変化形の蔑称、または「和人」のアイヌ読みともいわれる。
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