竹内文献についてはネットでも様々な紹介サイトがあります。

賛否両論ありますが多くは文献のあらすじを取りあげて、偽書といわれている方が多いようです。
それはこの文献が偽書裁判に付されたことが関係していると思われますし、その当時に偽書と断定した狩野論文が大きく影響していると思われます。

しかし、この裁判では竹内文献は無罪になっています。
判決は、もしこれが偽書であってもそれは遠い過去のことで所有者の竹内巨磨の預かり知らないことであろう、と結審しています。

八幡書店発行の神代秘史資料の人の巻はこの天津教事件の詳細を記録したものですが、この一節に、事件の参考人として三十七日間留置された吉田兼吉という人が奇妙なことを書き残しています。
それは、検察が証拠として取り上げていた狩野論文についてー、です。
狩野博士は一度も竹内文献を見ていない。偽物を鑑定して偽物と断じたというのです。
 
前田常蔵という人物が一儲けをたくらみ竹内文献の中のいくつかを偽造して、その写真を、陸軍大将という(デタラメの)肩書きで狩野博士に鑑定を依頼したという。
巨磨らは文献の幾つかのレプリカを作り、それを持ちまわりで見せていたといいます。前田氏らはこのレプリカを写真撮影して狩野博士に鑑定を依頼したという。
これが昭和三年のこと。
狩野博士の文献批判論文は昭和十一年である。この論文が昭和三年の写真を鑑定した内容だった、と云い、何者かの意図を感じると結んでいる。
この吉田兼吉にはその後の検事の取調べはなく、彼は後の裁判にも出ていないようです。

そしてこの話には後日談がついています。
竹内氏が逮捕されて以後、関係者の誰かが狩野博士に抗議をしたといい、そのあと狩野博士が「詫び状」を書いたと彼は書き残しています。ただ、この詫び状は残っていないようです。
「以上、神代秘史・人の巻より」


【参考資料】竹内文献批判・狩野亨吉 
PDF⇒天津教古文書の批判

(PDFファイルを見るためにはアクロバットリーダーが必要です⇒ダウンロードできます)

ある雑誌の竹内文献の評論で、ある作家が、竹内文献についてはこの狩野論文で決着が付いているのだと書いていましたが、この作家は竹内文献の何を読んだのでしょうか。
原典でしょうか、狩野論文でしょうか、それとも誰かの書いた紹介文でしょうか。

少なくともこの作家は、原著は読んでいないということだけは分かりました。
評論する立場にないのでは・・・。
映画の予告編を見て、「おもしろくなかった」と云っている様なものです。
ことわざに、「見て来た様なウソを云い」というのがありますが、世の中にはこんな方がざらにいて、それがかなりマスコミの中にいる・・TVを観ていたら分かるでしょう。
人の意見を鵜呑みにしてはダメ、自分の目と耳で確認することが重要だと思います。


竹内文献には天地創造からの記述がある訳で、これが面白おかしく知られている訳ですが、文書には南北朝時代の記述が多くあったといいます。
当初の巨磨らは、天地創造のことは検証の仕様がなく、この南北朝時代の記録を検証していたと云います。
文献は敗者の南朝側から書かれた記述が多かったようです。
南北朝時代の文書は八幡書店の資料には載っていません。
この記録には、古事記が室町時代に書き直されたともあったようで、ある部分、暴露記事のような体裁もあったのではないかと思われます。

戦前の天皇絶対制では、天皇を助けた楠正成が正義であり足利氏は逆賊とされていましたが、天皇系譜は北朝から現代に至っている訳です。古事記は天皇系譜でもある訳ですから、これらの内容には北朝批判も含まれていたのではないかー。最初の竹内弾圧(昭和五年)の嫌疑は不敬罪です。

竹内文献には信じられないことが多く記されています。
その中にキリストにかかわる事があります。竹内文献の中に、モーゼの十戒石などがあり、モーゼ・キリストが日本に来た・・などの記述があります。
キリスト教の伝来は1400年代、伝道者はザビエル・・・今でもそれが常識でしょう。だから、竹内文献は偽書なのだ、単純な結論をしてしまう・・です。
 
これから行けば、竹内文献は少なくともザビエル以降に作られたものでなくては計算が合わないわけです。
しかし、裁判記録を読んでいくとどうもそうではない。裁判所自体がもっと古いものではないかと観たような感があります。
 
さっきの竹内文献偽書論で、平安時代ごろに作られた偽書ではないかと論じていた作家がいます。
ではなぜ竹内文献にはキリストの記述があるのでしょう。
記述だけでなく、十戒石や、裏十戒石、他にも聖書にも記録されていないキリスト関連の石造物がある訳です。
 
それが存在していること・・これ自体が問題ではないかと思います。
まず、偽造物を作るのなら疑われるそうなことは書かない・・・のでは。
第二は、この文物の創造者はこれらの知識をどこから得たのか。
必然的に、キリスト教の知識を持つものが日本にいたことになります。

そしてこれが完全な偽造物なら、目的は人の注目を集めることではなかったか。
キリストが人の注目を集めるようなことだった、ということになります。
キリストを知る者しか注目しないはずです。
すると、日本にキリスト教徒がいたことになるのですが、日本の歴史にはキリスト教の存在はありません。
まさか、数百年後の人間をだますために、手間をかけ年月をかけて作った者がいたのでしょうか。何しろ、竹内文献には数千点の文物があったというのですから。
 
竹内文献には今までの知識だけでは判断できない内容が多々あります。
 表面だけを聞きかじって、アレはウソなんだと断じてしまうのは、ちょっと勿体無い・・・そんな気がします。
原典を読んでみること、これが最も重要ではないでしょうか。

竹内文献そのものは空襲で焼失してしまったので元の原典はありません。
現在は八幡書店から発行されている「神代秘史」と、茨城県の皇祖皇室太神宮で発行している「神代の万国史」が竹内文献を読める唯一のものです。


●竹内文献からひとつの検証を・・・
竹内文献の個々を手繰っていくと事実に行き当たることがあります。
ここではそのひとつをご紹介します。

「マゼ」という言葉をご存知ですか。
ほとんどの方は聞いたことのない言葉だと思います。
 
ところがこのタイトルの映画がありますね。
映画マゼ 参考リンク⇒ご覧ください。

マゼという単語は広辞苑には出ていません。
 
しかしこの言葉は高知、宮崎、鹿児島県地方の漁師さんの間で昔から使われていた言葉です。
意味は、「南の風」
参考リンク⇒ご覧ください
「マゼ南風 : あなたはどんな風をかんじますか」
国立国会図書館にある本のタイトルです。

こちらは⇒参考リンク/日本財団図書館にある本


以前は、高知県図書館の資料が見えたのですが、今は、リンクがなくなりました。

※以前の高知市民図書館の風の名前のページより。
「マジ?南風 土佐清水。宿毛市弘瀬。」「マゼ?南風 田野浦。室戸。高知。室戸。南西風 窪川町興津。」
(付記。マゼは温暖なやわらかい風で、この語は四国九州に広く分布している)
 
高知図書館の資料は、高知県での例だけが取り上げて記されていますが、宮崎、鹿児島などでは、マゼ以外の風の名前が今でも使われています。
この中には、マゼ以外の風の名前がいくつか出ていますが、いずれも広辞苑には出ていません。方言として地元だけに残っています。
 
ところが竹内文献には、この中のいくつかが風の名前として記されています。
マゼは南の風のことです。ちなみに、
 
マゼ・・・・・南風
ヤマゼ・・・南西間の風
コゼ・・・・・東の風
イコゼ・・・・東南の間の風
ナゼ・・・・・西風
アナゼ・・・・西北間の風
ヨゼ・・・・・・北風
コヨゼ・・・・北東間の風
 
そしてこの言葉が、全国で使用されていた可能性があります。
それは地名・・です。
この地名が全国に散らばってあります。多くは小字のようですが、中には漢字が当てられて町名になっているものもあります。
この中の漢字になりやすい言葉を選んでグーグル検索してみてください。
たとえば、
ナゼ・・・名瀬・・・です。
マゼ・・・馬瀬・・・です。
コゼ・・・古瀬・・・です。
発音のまま使用されてもいますね
リンク⇒
愛知県⇒豊田市松平志賀町コゼ/ヤフー

この中には、聞いたことがあるような地名があるはずです。
しかしほとんどの方は地名の意味は知らなかったはずです。
ここに出てくる、名瀬町、馬瀬町、古瀬町で地名由来が語られていたら、どんな由来が語られているのでしょうか。
まず、風の名前から付いた・・とは書いていないでしょうね。
 
※下記は参考リンクです。
 風の名前調査資料
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