全文紹介

プロローグ

不思議の古代史は、兵庫県神河町の八幡山の発見から始まった。

八幡山は、その山上に多くの巨石が存在する山で、 その中には磁石が狂う岩のある古代のピラミッドと云われる山だった。
だが、 八幡山の不思議は、その所在位置そのものだった。
八幡山十六方位の彼方には、竹内文書に記された古代天皇の陵墓が築かれたと云うピラミッド山が存在した。
だが、不思議はそれだけではなかった。
その南方位線上は淡路島に至り、そこに存在したのは
オノコロ島神社だった。

日本のピラミッドは、草創の歴史に関係しているらしいー。
オノコロ島とは、古事記国生み神話の冒頭に表われる島で、イザナギはオノコロ島を起
点に島々を産んだと云う。
最初に生んだのが水蛭子で、次に生んだのが淡島だったが、この二つは使わずに流した。
そして、淡道(淡路島)、伊予(四国)、隠伎(隠岐島)、筑紫島(九州)…、と産んで出来
たのが大八島と六つの小島で、合計十四の島を産んだと記される。

国生みの淡島
焦点は、使わずに流した二番目の「淡島(アワシマ)」だった。
淡島(アワシマ)と云うからには、普通、淡路島を連想するが、淡路島はその次に作った島で「淡道(あはぢ)」と記されていた。
淡路の他に「淡島(アワシマ)」と云う名の島は存在しない。
ーなら、読み方が間違っているのではないか…、そう考えるのが普通だろうが、平安時代以来、誰もそんなことを想定した歴史家はいなかったらしい。
漢字には複数の読みがあるー。江戸時代ならともかく、近代の日本なら知らない者はいないのでは…。

しかも、古事記は漢文で書かれていたのだから、原則は、漢読みだったのではないかー、
こう考えて見直すとー、
「淡」は和読みなら「あわ・うす」だが、漢読みなら「タン」…。
漢読み「タン」を当て嵌めると、「淡島」は「タンシマ」、ここから→「タジマ(但馬)」が浮かぶ。
但馬(たじま)とは、紀元七世紀の律令制で定められて以来、江戸時代まで使われていた兵庫県北部の古代国名である。
そしてそれは、八幡山ピラミッドが存在した場所なのだが、果たしてどうなのかー。
これが、積年の疑問として残っていく。
そして、この疑問が解けるのは、数年後のことだった。

阿波・大食国
一説に、淡路島は「アワの路」と書かれてあり、四国阿波への道程地名だとされる。
阿波(あわ)は、徳島県の古代令制国名で、古事記には、「粟國(あわこく)謂(いわゆる)大宜都比賣(おほげつひめ)」と書かれている。
 だが、古事記や日本書紀の記述からは、これを読み解くヒントは得られなかった。
ところが、ヒントは、謎の文献とされる竹内文書の中に存在した。
それは、上古第六代十一世・天目降主天皇の条に記された次の記述だった。
…大食作媛国阿波京桂山宮に葬る。
阿波とある以上、徳島のことであり、京桂山は剣山の近くに京桂峠の地名がある。
問題は、この「大食作媛国」だった。
これを読み解くのは、紀元七世紀の唐代の記録だった。
大食の読みは「タージー」…、タージーとはペルシャ語で、この発音に漢字を充てたのが「大食」であり、その意味は、アラビア半島に住むアラブ人のことだった。
古事記は、この大食(タージ)を巧みに隠していたのかー?
ところが、そうではなかった。

古事記には、大食(タージ)とは書かれていなかったが、それを意味した名前は書かれていたのである。
それが、四国阿波の別名「大宜都比賣(おほげつひめ)」だった。

大宜都(おほげつ)
そして、古事記には、大宜都(おほげつ)を読み解くための重要ヒントが残されていた。
それは、十五代応神天皇についての記述だったが、応神天皇の前の十四代仲哀天皇の項の最後に記されていた。
応神天皇が太子の時、若狭国、越前の敦賀(ツルガ)で、土地の気比(ケヒ)大神と名前の交換をしたと云う記述である。
つまり、この記述は、応神天皇の元々の名前が、ここに遺されているというヒントだったのだ。

気比神宮
気比(ケヒ)神社で祀られている祭神は、伊奢沙別命(いざさわけ)であり、この別名として、「気比大神」または「御食津大神」とも称される。
この名前の中に、実は、大食(タージ)を読み解く
ヒントが書かれていたのだ。だが、歴史学者の誰ひとり、これを解いた者が居なかったらしい。
更に、大宜都(おほげつ)は、日本の古代に重要な役割を果たした「秦氏族」の素性に迫る古代氏族を表わしていたのだ。


秦氏

秦氏とは、十五代応神天皇の十四年、倭国へ渡来した弓月君を祖先とした氏族のことである。この秦氏の祖先を祀る京都市右京区太秦の大酒神社には、秦酒公や弓月王、そして、秦始皇帝が祀られているが、同じ秦氏が祀った木嶋(このしま)神社、別名、蚕(かいこ)の社には、奇妙な三柱鳥居が築かれ、境内に作られた元糺(もとただす)の池の中にある。

夏の第一土用の丑の日に、この神池に手足を浸すと諸病に掛からないと云う信仰があり、昔日の京都市民は、毎年、土用の丑の日に参拝していたと云う。
この行事が、識者によれば、西洋のパステスマだったのではないかと指摘した。
パステスマとは、キリスト教の洗礼のことである。


弓月君

明治の佐伯好郎博士は、京都太秦の秦氏がキリスト教教徒ではなかっ
たかと推定し、弓月君の「弓月」という国名を、十一世紀の中国の史書「資治通鑑(しじつがん)」の中に発見した。
その中には三日月王国という国が登場し、別名を新月王国とも呼ばれ、「弓月王国」とも記されてあり、その国は、中央アジアにあった。

弓月王国の位置
ラビ・M・トケイヤー氏によれば、その位置は現在のアラル海とアフガニスタンの間と云う。
別説では、 現在の中国西端の外側、バルハシ湖の南、イリ川付近で、現在の「カザフスタン
国内」とも云われるが、正確には、現在の中国とカザフスタンの国境付近で、都自体は現在の「中国」(中国新疆(シンチャン)ウイグル自治区)北西部の伊寧(いねい)だと云う。

弓月王国は小国だったが、キリスト教王国だったと指摘したのだ。
そして、このイリ地方にあったらしい弓月王国は、じつに、「大食・大宜都(おほげつ)」に深く関係していた。
大宜都(おほげつ)とは、中国大陸から中東へと誘うヒント地名だったのだ。



本編は、平成二十九年四月から十二月にまとめた三作品を編纂したものである
第一章では、「大食・大宜都(おほげつ)」の謎を追い、同時に、中東メソポタミアの古代史を紹介する。
中東の歴史は、メソポタミアの歴史から始まっていると云って良い。日本の古地名に、古代メソポタミアの世界最初の帝国が関係し、古代中東の配置に比定して名付けられていたのだ。

第二章エジプト編では、エジプトの古代史から紹介する。古代エジプトの王たちは、その侭、竹内文書の古代天皇系譜に記されていた。彼らの子孫は、紀元前のある時期、激しい戦乱の中を潜り抜けて日本列島へやって来た。
九州…とは、本当は何と読む地名だったのか? これが解けると、古代史が解ける!

第三章蘇える辰王朝では、インド大陸の歴史から、契丹古伝を通じて渡来伝承の実体を明かす。
契丹古伝は、記紀以前の古文書を引用した文献だった。記紀がその実態をひた隠した「辰王朝」とは何だったのか?
神州日本…、その実像が浮かぶ。
日本古代史に秘められていた多くの謎が、ここで解けるだろう。

                                                        平成二十九年   市川 慎



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