八幡山という名の山が、全国に数え切れないほど多くある。
しかし、百名山・二百名山と云われるような標高の高い山には存在していない。地域の近くにある小高い山の場合が多い。八幡は、町の名前、集落の名前にも多くある。
八幡は関東では「はちまん」と読むが、関西では「やはた」と読む。
八幡は、本来、「やはた」と読んだ。平安時代の源氏物語では「やはた」と読まれている。
今は北九州市に合併した九州の八幡市は、やはた市だったが、滋賀県の近江八幡市は、近江はちまん市だ。
八幡神社とした場合には「はちまん」神社と読み、「やはた」神社とは読まない。
「はちまん」の読みは、八幡神社が源氏の氏神とされて以降ー、鎌倉以来のことらしい。
八幡山には八幡神社が祀られていることが多い。八幡山には、八幡神社が関係しているらしい。
兵庫県生野に存在した八幡山は標高七七五メートル、全体に高山が少ないこの地域では高い山の方だ。
この八幡山にも八幡神社が関係している。
兵庫・生野の八幡山は、みだりに登ってはならない山とされ、古来、封印されてきた山らしい。
そして、ふもとの八幡神社にはひとつの伝承が伝わっていた。
八幡山伝承
ー八幡山に雲が掛かると雨になる。
古来、地元の村では、この山の頂上を仰いで天気を予測していたという。
八幡山は標高七七五メートルの山で高山とは云いがたいが、全体に標高の低いこの地域では高い山の方だった。それに加えてこの山の位置は、山陰の但馬地方と山陽の播州地方の境界点にあたる山で、この山の北と南では大きく天候の違いがあったからだろう。
八幡山は、兵庫県朝来市生野町と神崎郡神河町の境界にあたり、その頂上点は、平成の合併(平成十八年)前までは、朝来郡生野町と神崎郡神崎町・大河内町の三町の境界点だった。
東山麓の猪篠(いざさ)集落では「八幡山」と呼び、生野町では「くぼ山」、大河内町北部の渕(ふち)方面からは「とんがり山」と、それぞれに呼ばれていたとも云う。
猪篠集落の氏神・八幡神社に、八幡神社は八幡山から降りてきたという伝承が伝わっていた。
昭和五十八年、この八幡山伝承を確認すべく、八幡山を踏査した人物がいた。この当時の猪篠集落の地区長だった中井義和である。
このとき彼は見た。
八幡山の頂上には巨石が転がっており、しかもそれは規則的に配置されていたのだ。
そして彼は、この年に発行された小冊子「ふるさと猪篠」に「八幡山伝承」と題して書き記したー。
ー山頂近くに「どやしき」と呼ばれる平坦地があり、 どんな時にも枯れることのない清水が湧き出ている所があると云う。
ーこの石は不思議である。石垣、礎石の類(たぐい)ではない。
八幡神社の前身の痕跡を求めて登ってきたが、この石は、それ以前のなんらかの原始信仰に関する痕跡なのかもしれない。
中井は、巨石の存在をこのように記録した。
ーこれが、どうやら古代の日本ピラミッドの巨石遺構だった。- その一、八幡山の発見
八幡山伝承
ーこの山に雲が架かると雨になる。
古来、地元ではこの山の頂上を仰いで明日の天気を予測したという。
八幡山の頂上点が、朝来市生野と神崎郡神河町の境界にあり、平成の合併までは、生野町・神崎町・大河内町三町の境界点になっていた。
東山麓の猪篠(いざさ)集落からは「八幡山」、生野町では「くぼ山」、大河内町北部の渕(ふち)方面からは「とんがり山」と、それぞれ異なった名前で呼ばれていたという。
奇妙なことはー、この山は正面から見ることが出来ない。見えているようだ
が見えていない・・、その頂上部は微妙に手前の高峰の蔭になって隠れている。
背後まで入らないと見えない山・・、それが八幡山である。
東の山麓・猪篠集落の氏神・八幡神社には、神社の前身が八幡山に祀られていたという伝承が伝わっている。
この八幡山伝承に着目して、八幡山を踏査した人物がいた。
昭和五十八年当時、猪篠地区長を務めていた中井義和である。彼は、冊子「ふるさと猪篠」の中に「八幡山伝承」と題して記している。
ー八幡山伝承に、山頂の近くに「どやしき」と呼ぶ平坦地があり、どんな時にも枯れることのない清水が湧いている所があると云う。
「どやしき」とは堂屋敷かー、何らかの堂のあった所という意味かー。 冊子発行の前年、彼は伝承を確認すべく、八幡山を踏査した。
だが、彼はこのとき「どやしき」らしい平坦地は発見できなかった。
ところがその代わりに、奇妙なものの存在に気づいた。
彼は、次のように記している。ー南西方向から頂上にかけて十数メートルの間に、ひと抱えにあまる大石が十数個、あるいは、二~三個重なり向きを変えて単独で転がったりしている。二~三人の素手では動かせそうもない大きな石である。
よく見ると山石ではなさそうだ。表面がなめらかで明らかに川石である。その二~三個にくさび状の切り込みが入っている。
しかし、この石は不思議である。
石垣・礎石の類(たぐい)ではなさそうだ。八幡神社の前身の痕跡を求めて登ってきたが、この石はそれ以前のなんらかの原始信仰に関する痕跡なのかもしれない。
中井は、このように奇妙な巨石の存在を記録し、下記のような写真を掲載していた。これは何か?ーと、興味をもったのが八幡山に係わった最初だった。
この一ページに出会ってから十年ほどにもなる。この中の八幡山がどこにあるのか、当時、地元で聞いても分か
らない。地図を入手して所在は確認したものの、さて、実際にどこから登るのかはっきりしない。平成の現在、普通の人にとって山は遠い存在になってしまっている。
八幡山への登頂は、それから半年を待たねばならなかった。八幡山踏査
半年後ー、ふとしたことから過去に山林組合に勤務していたT氏の知己を得た。
「とてもひとりで登れる山じゃないー」
山道はない、という。当人も、八幡山山系に入ったことはあるが、頂上まで登ったことはないらしい。
こうした経緯を経て、友人のひとりを誘って同行二人を得て八幡山に向かったのは、平成十四年六月十六日のことだった。
登り口は八幡山の東山麓、猪篠集落大歳神社から入る。現在、大歳神社の前に猪篠有志の会で簡単な八幡山案内があって、登山道が示されているが、これは、つい最近のことー、この当時、八幡山は地元でもあまり登った者の少ない山だったらしい。
一間幅の山道をしばらく進むと、八幡山の峰が南に見えて山へ入る登り口に着く。
そこから徒歩で、渓流に沿った山道をたどって登る。
チョロチョロと流れる渓流に、たまに、一メートル余りの滝がある。五つめの滝がちょっと高く、二メートルほどもあろう。ここから山はグッと急勾配になり、山道は無くなる。
斜面に残っている獣の爪あとをたどって、一歩一歩、踏みしめていく。気を緩めると滑って転ぶぐらいの勾配だ。
そうして渓流が途絶えた辺りで、山は多少なだらかになった。道らしい跡はなく、獣の跡も雑草の下に隠れて一面が杉林の斜面だった。地図から見当をつけて方位を探り、杉林の中を登っていく。
そうするうち、上方に明るい光を感じた。峰道が近いー。
平成十四年の当時、この峰道が神崎町と大河内町の境界線だった。
ほうほうの呈で、ようやく峰道にたどり着くと反対側の大河内町側には杉林はなく、草むらの斜面が明るく広がっていた。
見るとー、かなり下方に水溜りが見えている。
一目散に滑り降りた。広い草原の中に大きな水溜りがあり、その一ヵ所がふつふつと水を噴き上げている。
八幡山伝承に、山頂の近くに「どやしき」と呼ぶ平坦地があり、どんな時にも枯れることのない清水が湧いている所があるという。
「・・・・!」
まちがいなく、ここが伝承の「どやしき」だった。
だだっ広い草原は上下二段に分かれており、水溜りは下の段、上の段には累々と巨石が転がっている。日露戦争の当時、ここの草は馬の糧秣として刈り取られて
姫路連隊へ送られていたという。頂上は、近い。
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八幡山頂上
頂上への道のりは短いがかなりの急勾配である。雑木を握り締めながら這い上がっていく。登りきると平坦地に出る。そこがどうやら頂上らしかった。雑草が生い茂り、倒木がそこかしこに倒れている。
しばらく進んでいくと、雑木倒木の陰に古びた石が見えてきた。一抱えもふた抱えもありそうな古びた巨石が、そこにも、そこにも、こちらにも・・という具合である。
いくつほどあるのか、見当もつかない。
これはいったい何なのだろうかー、途方にくれたというのが実感だった。
一時間ばかり、そこかしこの巨石を見ていくのだが、何の手がかりも掴めそうになかった。 ところが、南斜面を降りたところで小さな石のかたまりに出合った。十文字に並んでいる。磁石を当てた。それは、正確に東西南北を指していた。
「・・・・!」
まちがいない。これは自然のものでなく、誰かが方位を示唆して配置したものだった。
そのとき、頂上から大声で呼ぶ声が聞こえた。同行のF君だった。急いで駆け上がるとひとつの巨石の前で二人が佇んでいる。
「この石がおかしい・・」
それは、三つの大きな石の並びだった。そのひとつがおかしいという。
磁石を近づけると指針が動いているような気がする。ーが、山間の方位は目印がなく、はっきりと分からない。そこで、明らかに正常な南北の位置で南北線を記録し、それを、三体の巨石のそばに置いた。そして、磁石をもって近づいた。
指針が動いた。右方向へ二十二・五度、
つまりこの巨石は、北北東ー南南西を指したのである。さらに、頂上北部の一体の巨石は、右方向へ四十五度、北東ー南西を指した。
ピラミッドと云われる山では、磁場が狂うことが多いとされている。
ーこれはどうやら、ピラミッド山の可能性がある!- ピラミッド説
多くの写真を収めて持ち帰ったが、さて、どのように調べていけば良いのか見当もつかない。しかし、怪しい・・。
八幡山は古代のピラミッドなのだろうかー。苛々しながら数日を経た。日本のピラミッドについての正規の文献
はない。記紀には記されていないのだ。だが、昭和の初めに日本のピラミッドについてぶち上げた人物がいる。
広島県庄原市で初めてのピラミッド山を発見した酒井勝軍(かつとき)である。
酒井のピラミッド説によれば、ピラミッドの条件として三つの条件をあげている。
一つ、三角形の山であること。自然・人工を問わない。
二つ、頂上付近に太陽石とそれを取り巻く列石がある。
三つ、本殿とは別に、本殿を拝むための拝殿がある。
一つめの条件、八幡山はどこから見ても三角形の山である。
そして、三つめの条件の拝殿は、水が湧き出ていた「どやしき」ではないかー。
ーならば、もうひとつの二つめの「頂上の太陽石とそれを取り巻く列石」・・これが分かっていない。
もう一度、正確な調査が必要だった。
方向が決まると為すべきことはひとつー、頂上の雑木を刈り取り、全部を一望に見ることが必要だった。
再度、T氏に協力を依頼し、再度の登頂になった。 -
方位石
一面の邪魔な雑木を取り除いていくと、膨大な石の配置が現われてきた。最初に見たよりもはるかに多くの巨石群だった。
多くの石が放射状に並んでいる。この直線が方位を表わしていることは直ぐに分かった。中心が頂上点付近にある。そこから放射状に並んでいるのだ。
東南方向へ倒れた石は、二つに折れたように切り口が対象になっている。
表面がつるつるで、まるで研磨したもののようにも見える。元は、立っていたのではないだろうかとも想像させる。
北東へ並んだ石は小さいけれども配列が長い。しかもご丁寧に、二ヵ所ある。これはそれぞれに指し示す場所が異なるという意味なのかどうかー。
西側へ並んだ三つの石は、三~四メートルもある巨石で、ぱっくりと割れている。
ここが磁場が狂った石だった。狂った方位は、北北東ー南南西だった。
この方位のみが方位石が存在しない。一列ずつゆっくりと眺めていくと、確かにそれらはそれぞれにひとつの方向を指している。
山上のすべての石が、東西南北ほかの方位を指していることが分かっていく。
太陽石
頂上点杭の近くにこんもりとした高まりがあり、その中央に二体の石が並んでいる。これが最初は分からなかった。
しかし、詳細に見ていくとこの二体の切り口は双方が対称になっている。つまり、ひとつの石が二つに割れたものだと分かった。元は、一体の巨石だったのだ。さらに、山全体の直線状に並ぶ直列の方位石は、そのすべてがこの石を指していた。この石が中心になっているのだ。
ーということは、これが巨石群の中心・・・、つまりこの石が、ピラミッド山で云うところの太陽石ではないかー。
元は丸かったものが年月の経過でこのような姿になり、割れてしまったものなのだ。
さらに、この石の周囲に幾つかの石が転がっている。
この太陽石の確認には時間を要した。日にちを変えて何度も確認していくことで最終的に思い至った。
それを図にしたものが下図である。
中央の石を中心に、幾つかだが周囲の十六方位の痕跡がある。多くは後世に誰かが移動したものらしい。頂上点杭の周りにも石が固められている。
十六方位酒井勝軍のピラミッド説によればー、
頂上の太陽石の配置には、四つの形があるという。
真ん中の太陽石を中心に周囲に十六の石が環状に配置され、それぞれが、東西南北ほか、十六の方位を指している。
これがストーンサークル・・環状列石と云われるものである。
さらに、ストーンサークルの形には四つの形式がある。
全体が円形のものが内宮式、四角形のものが外宮式で、一重のものを単様式、二重になったものを複様式といい、それぞれ
の組み合わせで四つの形になるという。
この円形の内宮式が日本のピラミッドであり、外宮式の四角形が外国のピラミッドだという。
たしかに、エジプトのピラミッドも南米のピラミッドも四角錐である。日本で発見される古墳の古いものは円墳であり、それが新しくなってくると前方後円墳の形になっている。前方後円とは、前が四角で後が円という意味だ。つまり、円形と四角形が合体したものといえる。
この内宮と外宮の違いは、内宮は日本人、すなわち、元から日本列島に住んでいたものが参拝する場所であり、
外宮は外国の人、つまり、外国からやって来た渡来人の参拝する場所だったという。
現在の伊勢神宮に内宮・外宮があるように、外宮は渡来人のための神社であり、すなわち、外宮の神は渡来の神であるという。
そして、この形をどこかでご覧になったことはないだろうかー。
国旗・・である。
海軍の日章旗には、真ん中の赤い丸から放射状に赤い線が描かれているのをご存知だろう。
これまで、この放射線は陽の光を表わすものだと思ってきた。どうやらそうではない。放射線の数を数えれば分かる。
十六なのだ。陽光なら十六に拘ることはない。
さらに、皇室の十六弁菊花紋、これも花びらは十六である。なぜ、十六なのかー。
方位なら十六以上でも十六以下でもない。十六しかないし、十六で全部を意味しているのだ。
つまり、日章旗の放射線は太陽の光ではなく、菊花紋は菊の花の図案化ではない。
十六方位を図案化したものだったのではないかー。
祭壇石
頂上の太陽石から南西側に、一間四方(約一・八メートル四方)の平たい巨石がある。これが祭壇石=メンヒルに相当するー。この石の上に祭祀物を置いて頂上を拝んだ。
この同じ南西方向に、最初に見た「どやしき」がある。
この配置は正に現在の神社とそっくり同じ、拝殿から本殿に上る階段と急斜面まで同じ配置だ。
「どやしき」は、この祭壇石を通して頂上を拝むための拝殿だったのだ。つまり、頂上は神社の本殿、どやしきが拝殿だったことになる。
こうして、頂上巨石群の配置を忠実に書き留めたのが、下図である。
方位石の六方位
最初の基本方位石は、東西南北を指していたが、その他の方位石はそれぞれ独自の方位を指していた。
方位石から現われた方位は五方向、
北東を指す方位石が二つ、南東を指す方位石が二つ、
南西を指す方位石が一つ、東を指す方位石が一つ、
西を指す方位石が一つ、
さらにー、磁場が狂って現われた方位が、東北と南南西だった。
方位としては、北東・東・西・南東・南西・南南西の六方向ということになる。
これを八幡山を中心に地図上に落としてみたとき、奇妙な世界が浮かび上がってきたのだ。その方向にはすべて、日本のピラミッドと云われている山々が存在していたのである。仮名・冬至石
さて、最後にひとつだけ、特筆して紹介しておく配石がある。
当初から不思議な存在で、方位石ではないかと推定した。ーが、方位が合わない。太陽石の近くにあって配石は三つだが、四つあった中のひとつが欠落したらしい。
十文字を測ると現在の東西南北から、約十五度、左方向へ傾いているのだ。
方位の傾きから、当初は冬至線に関係しているのではないかと想定して、冬至石と名づけた。しかし、冬至線の傾きは二十九度であって十五度ではない。
こののち、ピラミッドラインを追っていくと角度の異なる方位石に出会っていくー。それらはいずれも解決が付いていった。だがー、この十五度の方位の狂いの謎は、じつは、今も解けていないのだ。
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