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第一編 日本ピラミッド伝記
その一、八幡山の発見 2/2


  • 黒又山と湯環状列石
    日本に多くのピラミッドがあり、それは自然と思っている山だといわれる。
    最近でもっとも有名なものは、秋田県鹿角市にある黒又山である。
    黒又山、別名、クロマンタでは、平成四年から環太平洋学会の調査が行われ、山頂で縄文後期から続縄文期にわたる祭祀用土器が多数発掘された。黒又山が山岳祭祀遺跡だったことが明らかになったが、さらに、階段ピラミッドに似た七段から十段のテラス状の人工構造物である可能性が高いという。

    黒又山のすぐ近くにあるのが、大湯のストーンサークルである。
    一九三一年(昭和六年)に発見された大湯環状列石(ストーンサークル)は、道路をはさんで東西に対峙する野中堂と万座の環状列石で構成されている。
    万座遺跡の環状直径は四十六メートルで、現在、日本で最大のストーンサークルである。それぞれの組石の下に墓壙があること、また、配石遺構の下から副葬品をともなう土坑が発見されたため、大規模な共同墓地と考えられている。万座の周辺調査から掘立柱建物跡群が巡らされていたことが明らかになり、これらは、墓地に附属した葬送儀礼に関する施設ではないかと推測されている。
    大湯環状列石には日時計状の組石があり、日時計の中心部から環状列石中心部を見た方向が、夏至の太陽が沈む方向になっている。黒又山一帯には多くの祭祀巨石が点在しており、それらの施設を調べていくと当時の南北線が左方向へ五度、傾いているという。
    それらを総合して天文シュミレーションを行った所、四〇〇〇年前ごろと判明した。黒又山は、紀元前二〇〇〇年ごろに造られたものではないかと推定したと言う。黒又山については種々の紹介本が発刊されているので、詳細点はそれを参照していただきたい。


    山がピラミッドだったー中国
    二〇〇〇年当時、雑誌を賑わしていた中国奥地のピラミッドがある。
    アメリカ空軍のパイロットが偶然に目撃し、高空から撮影したという謎の建造物だった。中国に問合わせても「そんなものはない」という返事だったとも云い、中国は、その存在を隠しているのではないかともささやかれていた。
    角錐状の建造物は白い靄が掛かっているように見えたため、白いピラミッドと呼ばれて、長い間、謎とされてきた。
    ところが最近になって、その正体が見えた。インターネットのグーグルアースの登場で、素人でも高空からの写真が見えるようになったからである。
    グーグルアースが捉えた白いピラミッドとは・・、皇帝稜だったのである。
    白いピラミッドは、中国西安の北西に存在する唐の三代皇帝・高宗を葬った乾陵だったのである。

    乾陵
    乾陵とは、唐朝の第三代皇帝高宗(こうそう・在位六四九~六八三年) とその皇后・則天武后を葬った陵墓である。
    西安から北西に九〇キロあまり、陜西省乾県の北六キロほどにある広大な陵墓である。
    梁山の山嶺は北に一つ、南に二つあり、最も高い北峰が、標高一〇四七メートルで、この峰の真下(地下)に墓室が造られているという。下から見れば、ふつうの山にしか見えない。しかし、高度上空からみるとはっきりと、四角錐の山の骨格が現われてくる。
    三つの山の峰は一直線に並び、エジプトの三大ピラミッド配置と似ているのだ。このような山が、朝鮮半島にも多く見られるという。

    中国奥地のピラミッド山
    中国の奥地では多くのピラミッドらしい山が発見されているらしい。
    二十一世紀の最初に、オーストラリア商人が二人中国の中央部にある四川の広大な平原を旅行した。そこで、商人たちは一〇〇以上のピラミッドを発見したという。地元の修道院の責任者にピラミッドについて尋ねたら、これらのピラミッドは「大変古い」という返事が返ってきた。
    オーストラリア商人は、これらのピラミッドが、太古のエンペラーによって統治されていた時代に属するということも発見したという。
    エンペラーたちは地球外文明の存在を信じていたのだ。さらに、エンペラー自身が、「鉄の龍に乗って地球に着陸した空の息子」の子孫であると主張していたともいう。


  • 竹内文献
    日本ピラミッドの存在を最初に提起したのは、昭和初期の酒井勝軍だが、ピラミッドの存在を記した古文書が日本に存在した。その古文書が「竹内文献」である。
    竹内文献とは、越中富山(富山市)の御皇城山(おみじんやまー現在の呉羽山)にあった皇祖皇太神宮(こうそこうたいじんぐう)に伝わった古文書類で、明治四十二年、皇祖皇太神宮六十六代館長・竹内巨磨によって公開された古史古伝のひとつである。
    竹内文献には、奇妙な文字で書かれた古文書と、奇妙な機器類があった。
    この古文書をさして「竹内文書」といい、機器類を「御神宝(ごじんぽう)」といい、この総称を「竹内文献」と呼ぶ。
    「竹内文書」には、正史とされる古事記・日本書紀(まとめて、記紀)とは異なった古代歴史が記されていた。
    さらに、御神宝と呼ばれる機器は、皇室の三種の神器である鏡・刀剣、また、古代文字が彫り込まれた石や、天皇の骨で造ったという神骨像など数千点にも上るおびただしい量の物だった。

    日来神宮
    この御神宝の中の御神体石(ごしんたいせき)に問題の「巨石遺構」に係わる記述が神代文字で彫り込まれていた
    のだ。
    『イヤヨ月円(まど)六日、吉備常根本国 大綱手彦命天皇霊廟 亦ノ名メシヤ 日ノ神月ノ神 造主神日来神
    宮』
    要約するとー、
    三月十六日に吉備津根本国(きびつね・もとつくにー備前・備後の国をさす)に、大綱手彦天皇(おつなてひこ・すめらみこと)の霊廟(れいびょう)を造ったと云うー。
    この文章の最後の一節の「日来神宮」の記述・・、なんと読むのかー?発音は、ヒラミット。そうー、ピラミッド、だったのである。
    この大綱手彦命天皇の名前から竹内文書をたどっていくと、不合朝(ウガヤ・フキアエズ朝)十二代天皇の叔父に当たることが分かった。
    不合朝(ウガヤ・フキアエズ朝)とは、古事記には大和朝(やまとちょうー現在の大和朝廷)以前に存在した王朝で、記紀では一代だけの存在を記している。
    しかし、竹内文献では、大和朝以前に七十二代の不合朝(ウガヤ・フキアエズ朝)が存在したと記していた。
    この十二代天皇の名前が、弥広殿造天皇(ヤヒロドノつくりすめらみこと)と記されていた。
    さて、この「ヤヒロドノ」をご存知だろうかー。

    ヤヒロドノ
    ヤヒロドノとは、日本書紀の国生み神話の冒頭で最初に作った建物のことである。
    記紀によればー、 
    イザナギ命とイザナミ命は、天津神(あまつかみ)一同から国作りを命ぜられ、天の沼矛(あめのぬぼこ)を授かる。
    二神は天上の「天の浮橋」に立ち、天の沼矛(沼矛とは玉で飾った太古の刀)をもって青海原をかきまわし、その矛を引き上げたときに、矛の先から滴り落ちる潮(しお)が凝(こ)りかたまってひとつの島となった。
    これが
    「おのころ島」である。
    二神はこの島に降り、天の御柱(あめのみはしら)を立て、八尋殿(やひろどの)を建てた。天の御柱を左右からまわって出会い結婚し、夫婦の契りを結んで国生みを始めたのである。
    竹内文献には、この八尋殿が日来神宮、つまり、ピラミッドであると記されていた。
    記紀はピラミッドという言葉は伝承しなかったが、ピラミッドを作った天皇の名前を伝承していたことになる。
    そして、この記述の中の吉備津根本国(備前・備後の国)の霊廟・・、これが酒井勝軍が発見した葦嶽山だと云うのだが、これは後に触れる。

    古代の天皇稜
    竹内文献に記された大和王朝以前の記録は、不合(ウガヤ・フキアエズ)朝だけではない。
    不合朝七十二代以前に上古二十五代四四三世、さらにそれ以前に、天神七代を記している。これらに記録されたすべての天皇は、その最期に山の頂上に葬られている。竹内文献は、この天皇稜が日来神宮(ピラミッド)だとしている。
    八幡山の方位図上に存在したのは、竹内文献に記された神武天皇以前の古代天皇稜だったのだ。

  • 方位石の六方位
    八幡山方位石の指す方向、さらに、磁場が指し示す方位を地図に表わすと下図のようになる。
    八幡山の指す六方位の山々は、すべて竹内文献に記された山々だった。

    東北方位の日室ヶ嶽は、元伊勢ともされる京都府大江町の皇太神宮内宮にある山で、竹内文献・上古十五代三世の条にー、
    「豊雲野根天皇 天越根中王皇后 丹波別国伊勢ニ葬ル」と記されている。
    さらに、東北方位の彼方、石川県の宝達山には奇妙なモーゼ伝説があり、モーゼの墓があるとされる山である。
    竹内文献・ウガヤ朝三十一代の条にー、
    「橘媛(タチハナヒメ)天皇 即位三〇八年 ケサリ月篭八日 四八一歳ニテ神幽ル 宝達山ニ葬ル」と記されている。

    そのほか、西方位・島根県の三瓶山、東方位・滋賀県の比叡山、南東方位・奈良県の釈迦ガ岳、南南西方位・四国徳島県の剣山など、いずれも竹内文献に記された山々なのだ。

    高千穂
    最期の南西方位・九州宮崎県の高千穂の峰では、竹内文献・上古二十五代の条にー、
    「天津彦火火出見(ホホデミ)天皇 即位五〇万年 シハツ月立一日シテ 奇日根国高屋山大宮遷都 万機親裁セ
    シム所ヲ 高千穂ト云フ」
    高千穂は、記紀では高天原とされ、過去千三百年にわたって日本民族発祥の地とされてきた山である。
    この記述は、都を遷都して高千穂と呼んだという内容だが、この条の最後にこんな記述がある。
    「イヤヨ月円六日 神帰坐高屋山葬リ 八幡ノ神ト奉勧請」
    ホホデミ命は、記紀では、海幸・山幸で知られる竜宮伝承の山幸彦のモデルである。このホホデミ命が三月十五日に崩御され高屋山に葬られたと記す。
    高屋山は標高三九〇メートルの小山であり、彦火火出見尊の陵は、この山のいただきにある。
    この陵墓については、古事記にも、「日向の高千穂の西に在る」と記され、日本書紀にも「高千穂の西、高屋の山の上に葬る」と、記されている。
    さらに竹内文献では、高屋山に葬られたホホデミ命が、八幡の神として分霊されたと云うのだ。
    八幡山という名前からすれば、記述の中の八幡の神、つまり、八幡山はホホデミ命の分霊神を祀ったものではなかったかー。
    ここからは、こういう推測がなされてくるのだが…、

    だが、現在に残る八幡神社では、八幡に祀られた神がホホデミ命とは記されていない。
    ここら辺りから、既存の歴史と、ピラミッドから現われる歴史に多少の食い違いが現われてくる。
    ふつうなら、ああそうなの・・かも知れない。ーが、この違いは、日本の歴史を根本からひっくり返す事実となって突きつけられてくる。
    あなたが無意識に八幡さまで手を合わせた神さまが、あなたが想像していたような神でなく、じつに、驚きビックリの神さまが現われてくる。
    それは、この国の正体そのものが、明らかになることでもある。


  • 猪篠・八幡神社
    八幡山から降りてきた猪篠集落の八幡神社では、祭神は、誉田別命・比売(ひめ)神・息足帯姫(おきながたらし)命の三神。
    一般に、八幡神社の祭神は、誉田別命=応神天皇とされ、戦の神とされる。
    息足帯姫は応神天皇の母・神宮皇后で、もう一人の比売(ひめ)神は、日本神話の神々以前の神とされる古神であり、この比売神が、古来、八幡山以前からこの山系に祀られていた神ではないかと思われる。
    神社調書では、八幡神社の創建は不詳ー、霊元天皇
    の延宝(えんぽう・延寳)五年(一六七三年)の松平日向守の検地で本殿四坪、拝殿十坪を有したというが、それ以前は不明ー。
    猪篠の八幡社殿が建ったのは、古社というほどには古いことではないらしい。
    それ以前は、八幡山山上に並んだ巨石遺構が社殿そのものだったのかもしれない。

    八幡神
    八幡神は、日本の歴史上、重要な存在として扱われている。
    一二〇〇年代の源氏の棟梁・八幡太郎義家を祀り神として武家社会で奉じられ、また、明治の神社令では、応神天皇が祀り神とされて戦前の帝国思想の根幹を為した。
    多くの神社で応神天皇を祭神としているが、これがどうやら、明治の神社令が祭りあげた祭神らしい。
    明治の神社令では多くの神社で祭神変更を行っている。古来、大国主を祀ってきた神社でさえ「間違いだった」と応神天皇に変えたという。
    古来、創建不明とされていた古社の祭神が、明治になって、簡単に「まちがい」だったと分かるわけがない。


 
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