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第一編 日本ピラミッド伝記
その三、飛騨位山・富山尖山1/2

  • 日玉国
    こののち酒井は、飛弾に向かう。飛弾は、竹内文献に記された人類発祥の地だった。
    竹内文献・天神七代の条に、こう記されている。
    ー位山に、日の神の皇太子の居る大宮を日玉国と云ふ。
    この大宮を、天神人祖一神宮(あまつかみくにつかみたましいたまや)といい、これが現在に残る皇太神宮のことである。
    天神七代の第一子から人間が始まり、日豊本葺牙気(ひのもとあしかび)は、その他の神々とともに、天日国(宇宙のどこかの星から天元根国(地球)へ天降った。これが上古第一代の天皇で、神宮を造った場所が日玉国の飛騨の位山であり、ここから世界の創生と統治が始まった。
    上古第一代は二十一世あり、二百六十億二万一千八〇歳で遠津海のフクミミフジ山から天日国へ去ったという。
    上古第二代の造化気万男(つくりのしきよろづお)天皇は、天越根中国日見日高見国(富山県)の神明光池上の天神人祖一神宮で政務を執った。
    これが、御皇城山(呉羽山)の皇太神宮の元祖らしい。
    この一代だけで二百六十億年であり、これだけで、現在の常識・地球生成五〇億年をはるかにオーバーしてしまうのだが・・、竹内文献の表示年代は全編を通じて、このような天文学的な年代が表われる。
    合計すると、三千億年以上になってしまうのだ。…だが、この馬鹿げたような表示年代には、どうやら、書き手のなんらかの意思が込められているらしい。
    とにかく、竹内文献に発祥地と記されている以上、飛騨・富山には何かがあるはずだった。

    位山(くらいやま)
    岐阜県高山市のほぼ中央の高山市一之宮町(いちのみやまち)にある。標高一五二九メートルの山で、旧名を、愛宝山(あわやま)とも云った。
    飛騨北部と南部の境界山脈で、中部日本の分水嶺を成し、一方は宮川・神通川を経て日本海へ、もう一方は、飛騨川・木曽川を経て太平洋へ注ぐ。
    昔は、イチイの木の産地として有名で、天智天皇が近江大津の宮の造営にこの山の木を使ったことから天皇から官位が与えられ、以来、位山と呼ばれるようになったとされる。
    笏(しゃく)木の用材を伐りだす山として有名になった。日本二〇〇名山のひとつで、隣接の船山・川上岳と合わせて「位山三山」と呼ばれている。
    さて、ここで注意だが、この三山ワンセットで呼ばれていることをご記憶いただきたい。
    三峰ひとつは、のちに、重要な意味を持ってくる。
    川上岳(かおれだけ)は、岐阜県下呂市と高山市にまたがった標高一六二六メートルの山だが、位山と峰つづきになっている。
    船山は標高一四七〇メートルで、位山のすぐ隣に位置するが別峰の山である。三山の配置は図のようになっている。

    水無(みなし)神社
    位山は、飛騨一宮・水無神社のご神体山でもあり、登山道の登り口に水無神社の鳥居がある。
    本宮の水無神社は一之宮町にあり、祭神は、水無大神・御歳大神を主神とし、大己貴命・神武天皇・応神天皇、ほか十一柱を祀る。創建の年代は不詳だが、清和天皇の時代に従五位上の神階の記事がある。
    神社由緒ではー、
    神代の昔より、表裏日本の分水嶺位山に鎮座せられ、神通川・飛彈川の水主、水分の神として崇められ、農・殖産祖神・交通守護として神威が高く延喜式飛彈八社の首座となる…という。
    水無神社の奥宮が位山にあり、ふもとに鳥居があるが、社殿はない。位山全体が御神体とされている。
    水無神社鳥居の脇に、大蛇を狛犬とした境内があり、太陽石のレプリカが祀られている。竹内文献の飛騨発祥説から造られたものらしい。

    水無(みなし)は蛇主(みなし)でもあり、位山の主は山を七巻きする大蛇であるとも云われている。この大蛇が何を意味したものなのかー、それは、神代の残像全編を通じて徐々に姿を現してくる。大蛇は、日本の古代史の根幹に存在したものだったのである。(参照→姫の国への道標)
  • 水無神社鳥居からの登山道が巨石群登山道で、頂上へ至る山道脇には、膨大な巨石が立ち並び、位山の頂上には「天の岩戸」や「鏡石」と説明された巨石が存在する。
    ーが、何分に古びており、具体的な点は分かりにくい。
    位山の東斜面が、モンデウススノーパーク(旧名・位山国際スキー場)で、ゲレンデの上に祭壇石がある。
  • 上原清治
    昭和九年九月、酒井は飛騨・上野平で平面ピラミッドを発見する。
    それは高い山上ではなく、小高い丘の上に配置された太陽石と十六方位の環状石の残骸遺構だった。現在、これらの環状石は、高山市上野平の松森神社に保管されているという。
    この飛騨行きで酒井は、ひとりの同志を得る。元陸軍砲兵大佐で現役を退き、生まれ故郷の郷土史を手がけ
    ていた上原清治だった。
    上原清治の調査活動は精力的で、飛弾一円の山々に調査を延ばし、次々と巨石遺構を発見していく。
    高山を中心に、位山・船山・洞山・鍋山・松倉山・乗鞍岳などの巨石遺構は精力的で、飛弾一円の山々に調査を延ばし、次々と巨石遺構を発見していった。
    高山を中心に、位山・船山・洞山・鍋山・松倉山・乗鞍岳などの巨石遺構は多数にのぼり、調査報告は随時、酒井主筆の「神秘の日本」誌上で発表されていく。

    飛騨の十六方位
    ところが、この上原の調査遺構が数多く並んでいくに従って、奇妙なことが見えてきた。
    これらの巨石群が、規則的に並んでいるように見えてきたのだ。
    その中心がどうやら高山市の北方、丹生川村の日輪神社らしいー。

    日輪神社
    日輪神社は、高山市丹生川村大谷の国道沿いのなだらかな円錐形の小山の上にある。
    創立年代は不詳ー、山頂は、丹生川村(小八賀郷)の乗鞍岳から昇る太陽を神とあがめて拝所を聖地としており、狩猟はかたく禁じられているという。
    主祭神は天照皇大御神だが、明治四〇年に合祀した稲荷・天満・荒神の三社神が共に祀られている。
    山そのものを御神体として崇敬の厚かった神社だという。
    上原清冶の調査によればー、神社境内の庭や参道に露出している岩坂は鋼鉱で、本堂の裏山から硅石混じりの川石が出てくることから、神社の裏山は一部が埋め立てられて造成された山らしい。
    本殿の脇に破壊された石が残されているのだが、これが(昭和十年ごろ現在から)二~三十年前に壊されたもので、もとは、直径が六尺(約一・八メートル)ほどの丸い石だったという。
    日輪神社の山は、古墳か、ピラミッド山ではないかと結んでいる。
    この丹生川村の日輪神社を中心に十六方位を描いたとき、飛弾一帯に点在する山々が、すべて、この十六方位線上に存在していた。
    ピラミッド山に十六方位が存在することを発見したのである。
    さらに奇妙なことは、兵庫の八幡山との関連である。片や関西の兵庫県、片や中部地方の飛騨で、おそらく、その地域の住人はそれぞれその存在さえ知らないだろう。
    ところが、八幡山の東北東方位の延長線は、日輪神社の西南西方位ラインと結ばれているのである。数百キロのきょりを経て、この不思議は一体何なのだろうか…。

    高屋山と高野山
    飛騨で発見されたピラミッド山は酒井勝軍の時代だけではない。
    昭和四〇年代の後半にも、ひとつのピラミッド山が発見されている。
    日輪神社のすぐ北東部にある丹生川村の高屋山である。
    山の頂上付近には、苔むした磐坐がごろごろと並んでいる。
    この高屋山という名に覚えはないだろうか。
    八幡山の五方位で、九州高千穂の項で登場した山の名前である。
    「イヤヨ月円六日 神帰坐高屋山葬リ 八幡ノ神ト奉勧請」
    竹内文献には、ホホデミ天皇の埋葬地として九州の高屋山を上げていた。

    高屋山は「たかやさん」だが、これは「こうやさん」とも読める。
    「こうやさん」と読めば連想するのは空海ー、和歌山の高野山である。
    空海の高野山もまた、転軸山・楊柳山・摩尼山の三つの山の総称を云い、高野山という名称の山はない。これは、妙に位山の三山とも符合する。
    九州の高屋山、飛騨の高屋山、そして、空海の高野山は、果たしてどこかで結びつくのか…、これはピラミッドラインラストに表われてくる最大の謎である。


  • 富山県立山町・尖山
    飛騨十六方位図の日輪神社の北方線上に存在する山がある。
    富山県立山町の尖山である。標高は、五五九メートルほどの低い小山だが、円錐形のその形状は、まさに人工のものにも見える。
    頂上部分は、すっぱりと切り取ったようにまっ平らで、三六〇度の展望が開ける。
    三〇帖ばかりの狭い平地に多くの石が転がっており、その中のいくつかの石の傍で磁石が指す方位が狂う。指し示す方位は、三方向である。

    一、北西方向を指す→御皇城山(おみじんやまー呉羽山)がある。御皇城山には竹内文献の皇祖皇太神宮があり、古代天皇の城があったとされる山である。
    二、南南西を指す→飛騨位山がある。尖山には、位山と係わる奇妙な地元伝承があるらしい。
    いわくー、
    ー日が暮れてから山に入ると位山の天狗にさらわれる…。
    ー尖山に入った男が急にまぶしい光に包まれ、気がつくと位山にいた…という。
    これは、この山と位山に何らかの関連があったことを想像させる。
    三、真東を指す→皆神山(長野)がある。
    皆神山もまた、古代のピラミッドではないかと云われる山である。(日本のピラミッド・皆神山を参照)
    こうした数々の現象のほかに、地元には尖山が人工の山であるという伝説があり、仁仁杵(ニニギ)命が祀られている神山とされていた。

    人工の山か?
    昭和五十九年、富山大学の山口教授がこの尖山を踏査したという。
    調査記録によれば、登山道とは反対側の北側斜面は、大小様々の石を積み重ねてできており、ピラミッドの稜線も石で固められてくっきり出ている。
    尖山が、自然に隆起してできた山ではなく、石を積んで造った人工の山であることが、ありありと分かったという。
    表面が草木や土に埋もれ、人工部分が基部からなのか、上半分なのかがはっきりしない。
    岩組みの稜線を下ると、突然、平坦な台地に出る。基部に平坦な台地があり、その上にピラミッドが乗っている形になっている、という。
    山麓の横江村の住民の話に、「山の北側の中腹に高さ六~七メートルの石垣が、約五〇メートル間隔で並んで段のようになっており、その近くに、一~二メートルの丸い高台がある」ともいう。
    こうした調査から、山口教授は、竹内文書に記された「アメトツチのピラミッド」が、この尖山ではないかと推定した。竹内文書上古二十四代には、仁仁杵(ニニギ)天皇が御皇城(おみじん)山から十和田湖へ遷都したと記されている。

    天の浮船(あめのうきふね)
    竹内文書には、「天の浮船」という空を飛ぶ飛行機器の存在が記されている。
    太古の天皇は天空を超高速で駆ける「天浮之船」と呼ばれる飛行艇に乗って世界を巡行したというのだ。
    『ケサリ月円五日、詔(しょうー召して)して万国巡行、大力勇神通力にて一日八千里、天空浮舟乗行給ふ。
    又一日一万一千里行給ふ。時に万国五色人王、又尊者貴く、天神の御来光と云ふ拝礼す』
    この記述は、上古十八代・大斗能地王天皇(おおとのちおう・すめらみこと)の条ー、二月十五日に天皇が世界の巡行にお出かけになった。
    一日に八千里、つまり、三万二千キロ、または、一万二千キロを天之浮船に乗って行かれた。
    そして、世界の各地を訪れて礼拝された、というのだ。
    十和田湖遷都のときにも、古代天皇は、天の浮船に乗って尖山から飛び立ったのではないかー。
    尖山から北へ伸びた天林(てんばやし)台地は真っ直ぐに伸びており、古代の滑走路を思わせる。たしかに、尖山の存在位置は計算されたように造られているのだ。
    立山町を南北に走る富山鉄道立山線に沿って天林(てんばやし)台地が南北に長く伸びている。
    天林台地の標高は三〇〇メートルほどで、尖山は天林台地のはずれにあり、
    山はその上に乗っている。鉄道は台地の下、標高二五〇メートルを走っており、この高さが現在の平野部分で国道と神通川が並んでいる。
    尖山そのものが、小高い山の上に置かれている。古代の海水位の高い時代があったと想定すると、天林台地は海に突き出た桟橋のように見えてくる。
    尖山の不思議はこれだけではない。
    尖山と富山のほかの山々を結ぶ方位線、さらに、寺社・仏閣・古代遺跡を結ぶ方位線にも奇妙な謎が浮かんでくるのだ。
  • 富山・御皇城山(おみじんやま)
    竹内文献に記された御皇城山とは、現在の呉羽山のことである。この東山麓に、竹内文献の皇太神宮がある。
    富山駅の南西、呉羽山の東山麓にあたり、富山養護学校裏から細い参道が登っている。
    往古に世界の中心だったという皇太神宮(天人人祖一神宮)は、深い竹やぶの奥にひっそりと鎮座している。
    御皇城山皇太神宮の由緒によればー、
    御皇城山は、天神七代を経て皇統第一代「天日豊本葦牙気身光大神(あめひのもとあしかびみひかりおおかみ)天皇」が、人間社会の統治者として神定され天降った地である。
    この場所は「神明」とされて、初めて神宮が建立されたのがこの地区で、その神殿は上古五代天皇の記録では、七百二十一尺、奥行き六百六十一尺(時代により、千二百六十一尺の記録もある)という広大なもので、屋根はヒヒイロガネで葺いた参殿造りであったと記されている。

    ヒヒイロガネ
    ここに登場したヒヒイロガネとは、竹内文献に登場する謎の金属である。
    火炎のゆらめきにも似て朱くかがやき、決して錆びることのない金属。比重は金よりも軽く、その純粋な物は
    鉄よりも柔らかだが、合金するとプラチナよりも硬くなる。
    ヒヒイロガネで造られた茶釜で湯を沸かすと、木の葉数枚で湯が沸騰する・・・ヒヒイロガネには、相手の持つ能力を増幅させる作用があるというまぼろしの金属ー、それが、ヒヒイロガネである。
    ヒヒイロガネは、カカコノ山で産出したと竹内文献に記されている。
    こういった金属が、アトランティス伝説にも記されているという。
    アトランティス伝説ではオリハルコンと呼ばれたそれは炎の金属ともいわれ、特異なエネルギーを放射したという。
    オリハルコンとは「山から取れた金属」の意味だ。オリハルコンとヒヒイロカネは、あるいは、同じ金属を指しているものなのかー?
    御皇城山の御皇城の屋根は、黄金色にかがやくヒヒイロカネで葺かれていた。
    「天浮き船」もまた、このヒヒイロガネで作られていたという。

    別名、八幡山
    お宮は二十年ごとに換え地に交互に建てられた。
    その一方がこの八幡山であり、天皇自身が祭主する大祭には、全世界から五色人が集い盛大なお祭りが行われたという。
    創立以降、幾多の天変地異、土地の隆起陥没により、神域は変形したが、ホド宮としての八幡山(ミド宮は久郷の地)皇祖皇太神宮は、このような由緒ある場所である。
    つまり、現在の神宮のある山は、八幡山とも呼ばれていたというのだ。
    御皇城山(おみじんやま)とは、御皇城(おみじょう)がある山という意味で、特定の山を指す言葉ではないらしい。
    御皇城とは、天皇が住む城の意味で、現在の皇居のことである。
    竹内文献の上古代には、二十五代四四三世の天皇が記されている。
    現在のイギリスなどの王室のように、一世、二世と同じ名前を名乗っていくのだ。一代に二〇世以上のときもあれば、数世のときもある。
    そして、古代天皇の住む御皇城のある中心地は、天皇が交代する度に変わっていく。遷都していくのである。
    上古代の初めには、日本列島だけでなく、アフリカ・天竺・オーストラリア・ヒウケエビロス(北米)・四川・イタリー・ブータンなど、世界各地に転々としていく。
    この間、数百億年という年月が過ぎていく。
    日高見国(富山)の神宮も何度も建て直されていく。神宮は二〇年に一度、建て替えるという決まりがあった。これは、現在の伊勢神宮の式年遷宮に似ている。

  • ふとした出来事
    御皇城山皇太神宮での取材の最後に、ちょっと奇妙なことがあったので記しておきたい。すべての写真を収めて帰り、参道
    が折れるところで最後の一枚を思いついた。
    深い竹やぶの中の鳥居を撮りたかったもので、地面にカメラを置いて這いつくば
    ってシャッターを押した。
    真夏だったが竹やぶの下は涼しかった。立ち上がりかけたとき一陣の風が吹いた。
    ざわっーと竹笹がしなってざわめいた。それのみ…、風は止んで静かになった。
    その後だった。ひらひらと空から降りて来るものがある。
    ーなんだ?それは枯れた竹笹だった。ひらひらとゆっくり落ちてくる。
    アチラもコチラも一面同時に、粉雪が降るように、数え切れないほどの枯れ笹がひらひらと舞いながら落ちてくる光景だった。
    立ち上がって、つい見とれてしまったものだ。
    とても長いように感じたが、時間にすれば一~二分ほどのことだったが、なぜか十年近くなる今でも印象深く憶えている。


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