- 二上山(ふたかみやま)
尖山の頂上で磁石の狂う石があり、そのひとつが北西方位を指す。
その北西方位にあるのが御皇城山で、その延長線上のもうひとつが二上山である。
二上山は、富山県の高岡市と氷見市にまたがる標高二七四メートルの山である。
万葉の歌人・大伴家持が越中の国守だったとき、二上山にちなんだ歌を数多く詠んでいて、中腹に大伴家持の像が建っている。
二上山万葉ラインという全長八キロ余りのドライブコースが、山肌を東西に縫うように走っている。
二上山はその名のとおり二つの峰からなり、地元の人は古くから神の山として崇めてきた。
山頂に小さな祠がある。
南麓の二上射水神社の摂社の「日吉社(ひえしゃ)」で、通称を奥の御前という。
二上山には、竹内文献の所有者・竹内巨磨の祖という武内宿禰の墓があるとされる。
それがこの日吉社なのかどうかは分からない。
日吉社は、大国主神・大山咋神を祀る神社である。
二上山南麓の二上射水神社は、越中国一宮で、明治時代に遷座した射水神社の元の鎮座地であり、二上山を神体山として二上大神を祀っている。
創建は奈良時代以前とされ、社伝によれば、当神社は二上山を神奈備とし太古よりその麓に鎮座していたが、養老元年(七一七年)に行基が勅を受けて二上山麓に別当寺を建立し、二上神を二上権現と称して祀ったという。
この二上神とは、ニニギノ命のこととされていて、武内宿禰との関係は、表の歴史からは現われてこない。
そこからさらに北西方向に存在するのが、石川県と富山県の県境にある宝達山である。
宝達山(ほうだつさん)
宝達山は、石川県と富山県にまたがる南北に長い山脈で、頂上点は石川県羽咋郡宝達志水町(旧、押水町)域にある。標高六三七メートル、山名は天正から江戸時代にかけて採掘されていた金山に由来するとされる。
- モーゼの墓
宝達志水町の宝達山麓に、旧約聖書の十戒有名なモーゼの墓があるが、これもまた、竹内文書に拠るものである。
モーゼの来日は、竹内文献不合朝六十九代・神足別豊鋤(かんたるわけとよすき)天皇代にー、
「即位二〇〇年、イヤヨ月円六日、ヨモツ国より、モオセロミュラス来り、十二ケ年居る」と記されている。
モーゼは、古代日本の能登にやってきて、十戒を彫り込んだ「十誡石」を天皇に献上した。承認を待つ間に、第一皇女の大室姫(おおむろひめ)を娶り、十二年の新婚生活を日本で送ったという。
やがて天皇から十戒の承認を得たモーゼは、 天空浮船に乗って日本を出発、イタリア・ボローニャ地方を経由してシナイ山にもどり、十戒を世界に広めるという大役を果たした。
その後、モーゼは余生を過ごすために再来日。五八三歳という長寿を全うして、宝達山のふもとにある三ツ子塚に葬られたという。
モーゼの墓かどうかは別として、この三ツ子塚は古墳であることが確認されており埋蔵文化財になっている。
また、戦後、モーゼ伝説を聞きつけたGHQが塚を発掘したという話もあり、錆びた鉄器類などが発掘されたらしいが、人骨は出なかったという。
竹内文献の由来
竹内文献には、モーゼのほかにも、多くの聖人賢者の来日が記されている。釈迦・老子・孔子・
孟子、また、神倭朝十一代の垂仁天皇代にはキリストまでやって来たと記されている。
奇妙なことは、キリスト伝説は青森県にあり、そこにはキリストの墓まで存在しているのだ。
ー??????
まともに見れば、とても信じられない。
こういった記述によって、竹内文献は偽書ではないかと多くの方が思っている。
だが、こういった人たちは、推理小説などを読んでも書き手の意図を読めない人たちで問題外だ。
ー文書には天皇の元へ来たと書かれているが、日本列島へやって来たとは書かれていない。
それを読んで説明書きを作った後代の者が、そう書いているのだ。
竹内文献は日本の富山県から出た。だから、単純に日本列島のことと解釈している。
しかし、竹内文献の原典は、神代文字で書かれていたのだ。
それを漢字カナ混じり文に翻訳したのが平群真鳥とされる。
平群真鳥は生年不詳の人物だが、正史では、雄略天皇(四五六年~四七九年)代に大臣となり、謀反を起こして、武烈天皇(四九八年~五〇七年)に処刑されたと記録された人物である。
この年代、漢字は正式には日本に渡来していない。漢字は仏教とともに伝来した五三〇年とされる。
ーが、正式ではなくても、一般にすでに漢字が使われていたとしても不思議はない。
当時、新興勢力から皇室に伝わる古文献の引渡しを要求されていた武烈天皇が、平群真鳥に命じたのが古代文献の守護だった。
処刑とみせて、秘密裏に越中富山へ落ち延びた平群真鳥は、御皇城山に潜んで文献を翻訳した。
これが竹内文献に伝わる元来の由来である。
竹内文献の原典は漢字ではなく、神代文字で書かれていたのだ。
竹内文献の原典がはたして日本で製作されたものなのかどうかー、この当時の平群真鳥にも分からなかったのではないだろうか。
ーと言って、ではすべてが事実かと言えば、おそらくそうではない。
それは、正史とされる記紀にも云えることであり、古文献には付き物のことではあるまいか。
このとき平群真鳥が、例えば英語にでも翻訳していたなら、この話はどこの国の話になっただろうか。
無論、この当時、英語そのものが存在していない訳だが…。
古英語そのものが紀元四五〇年から一一〇〇年ごろの成立という不確定な話であり、日本の歴史などとは比較すべくもない。
広辞苑にさえ記録されていない事柄が事実として日本列島に残っており、それが竹内文献に記されていることがある。
八幡山の調査過程で現われたひとつの事実をご紹介しよう。
- コゼ・ナゼ地名
八幡山流域に、播磨風土記で川辺の里と記された里がある。
現在の市川町にあたる所で、その地名は小畑集落にある。
小畑集落は南から北へ伸びたY字形になり、集落の中央で山を挟んで東小畑と西小畑に分かれる。
東小畑を進んだ最北の谷を「コゼ」と呼び、突当たりの山を「コゼ山」と呼んでいる。
この「コゼ」の意味を知る人は一人もいないが、昔からそう呼ばれ伝承されてきた地名だ。
むろん、広辞苑にも載っていない。
ところが、竹内文献の中に「コゼ」の記載があったのだ。
地名ではない。風の名前なのだ。ちなみにー、
- コゼ……東風 イコゼ……東南間の風
マゼ……南風 ヤマゼ……南西間の風
ナゼ……西風 アナゼ……西北間の風
- ヨゼ……北風 コヨゼ……北東間の風
- 東小畑北端の「コゼ」とは、東の風を意味する言葉だったのだ。
ーすると、東小畑に対応する西小畑に…、あるー、西小畑には「ナゼ」と呼ばれる場所が存在した。
ナゼとは「西の風」、ふたつの言葉はぴったりと東西の対応地名として使われていたのだ。
しかも、これらの言葉のいくつかが、現在の日本で今も使われているのだ。
高知県と宮崎県であるー。
マゼとは南風の意味で、高知県の田野浦・室戸・高知などの漁師の間で現在も使われていた。
マゼとは南から吹く温暖なやわらかい風を意味し、四国・九州に広く分布している、という。
アナゼ(北西の風)もそのままの意味で室戸などで使われ、ヤマゼ(南西の風)は大月で、さらに、ヤマセと転訛して室戸では北北西の風になり、ヤマジと転訛して宿毛では北東の風に転訛しているという。
驚くべきことは、これが映画のタイトルにもなっているのだ。
二〇〇五年製作、主演・蟹江敬三でタイトルは「MAZE マゼ」ー、高知県香美郡夜須町手結港を中心に描かれた漁師の物語である。
これは高知・宮崎方面の方言だったのかー、しかし、それが何故、兵庫にあるのか、と思っているとそうではなかった。
風の名地名は全国に存在したのである。
風の名地名
豊田市松平志賀町コゼ。ここではそのまま、発音地名で残っている。
さらに、新潟市西区小瀬・姫路市夢前町古瀬畑……。
ナゼには、名瀬・奈瀬などの漢字が充てられ、京都府綾部市戸奈瀬町・横浜市戸塚区名瀬町・鹿児島県奄美市名瀬佐大熊町(旧・鹿児島県名瀬市)…。
マゼには、馬瀬・間瀬などが充てられた岐阜県下呂市馬瀬・大阪府泉北郡忠岡町馬瀬・伊勢市馬瀬町・長崎県西海市大島町間瀬…。
この他に、アナセ(北西の風)に阿成を充てた兵庫県姫路市飾磨区阿成などがある。
風の名地名地名は、新潟・埼玉から南は長崎・鹿児島まで、全国的に存在しているのだ。
このことは、コゼ・ナゼの言葉が風の名前として全国的に使われていたことを意味する。
だが、この言葉は現在の日本語には残っていない。
死語になった言葉で、かろうじて、高知と宮崎の方言として生きていたのである。
それが竹内文献に記されていることは、竹内文献が、八世紀の記紀や風土記が記していない漢字以前の記録が含まれていることの証明であろう。