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第一編 日本ピラミッド伝記
その四、青森から五葉山へ1/2

  • 大石神ピラミッド
    国道四五四号線を走って青森県新郷村戸来(元の戸来村)に入ると、ピラミッド・キリストの墓を指す交通標識に出くわす。
    このピラミッドとは、昭和九年に画家の鳥谷幡山が発見した大石神のことである。
    ちょっと意表をつく看板だが、話題のない山間集落の村おこしのひとつの材料になっている。
    昭和十年八月、酒井は竹内巨磨や画家の鳥谷幡山らと共に、東北・青森県戸来村(現在の新郷村)へ赴いた。
    大石神ピラミッド山の調査行だった。酒井勝軍は、ここで鏡石(十二メートル四方)・方位石(一メートル余りの割れ目が東西を示す)、頂上の巨石が北極星に向かい南北を指していることなど、ピラミッドの条件を満たしているものと指摘した。
    鏡石は、元は直立して表面に文字が彫刻されてあったと伝えられているが、安政四年七月の地震で倒れて埋没したと伝承されている。
    この同日、戸来の十和利山にもピラミッド遺構を発見し、大石神と十和利山は、二つを結ぶことで成りたったものであるという。
    酒井勝軍の説ではエジプトやメキシコのものと異なり、日本のピラミッドは平面基礎から築き上げたものではなく、三角形や神備型とした山の頂上にあり、太陽石が置かれその周囲に「盤石」列石が配置されていることを指摘する。
    大石神は深い山岳地帯にあり、石はかなり古くて痛んでおり、酒井の指摘をすべて確認することは難しい。
    山上に二カ所の巨石の固まっている場所があり、山下が大石神ピラミッド、上大石神ピラミッドと呼ばれている。

    キリストの墓
    竹内巨磨がキリストの墓を発見したのは、大石神調査の前日だったという。
    竹内巨麿は、三戸郡戸来村(現在の新郷村)で、二~三間の長方形の盛り土を見ると立ち止まり、そこに「統来訪神」と書いた目標と、その前の野月の二ツ塚に「十来塚」と書くよう村長に話したという。
    この後、竹内巨麿は竹内文書に、「イスキリス・クリスマス・福の神・八戸太郎天空神・五色人へ遣わし文」にはじまる記述や、「イスキリス・クリスマス」の遺言があるとし、イスキリス・クリスマスはゴルゴダの丘で処刑されず、弟のイスキリを身代わりにして日本に渡来し、この地で、一〇八歳の長寿を全うして死んだ。

    その墓が「十来塚(統来)」であるとし、このイスキリス・クリスマスがイエス・キリストであり、「十来塚」が「イエス・キリストの墓」であるという。
    この後、戸来村に「古代史書研究会」が来村して戸来村の村名は、ヘブライに由来するとした。
    さらに、岩手県一戸町出身の神学博士でアメリカ在住の川守田英二が、
    現地の伝承歌である「ナニャドヤラ」が、
    ヤハウェをたたえるヘブライ語の歌であるという書簡を戸来村に送ったという。
    キリストの墓の隣接地が村の旧家・沢口家墓所だが、墓石に刻まれた菱形の桔梗紋は五芒星に見えるところから、イスラエルの失われた十氏族やイエスとの関わりを指摘された。
    六芒星は「ダビデの星」としてユダヤのシンボルとされるが、一方の五芒星はソロモンの星ともいわれるが、そうでないとも云い、はっきりしていないのだ。

    現在でも、戸来小学校の校章はダビデの星と同じ形の籠目である。
    戸来村では、子供の額に健康祈願などの意味合いを込めて、墨で黒い十字を書く風習があったという。
    東京大学の余郷嘉明助教授による世界三十四ヵ国にわたるヒトポリオーマウイルス分布調査によれば、コーカソイドに見られるEUタイプウィルスが秋田県で見つかっている。
    これは、コーカソイドの集団が秋田周辺にやってきた可能性を示すものであるという。
    ヘブライ人もコーカソイドであることから、これらの遺伝情報調査結果は、日ユ同祖論の傍証ともなっている。
    東北地方の岩手県北部から青森にかけて、一戸(いちのへ)・二戸・三戸から、十戸という地名が残っており、これも、失われた十氏族に由来する地名ではないかと言われている。
    ????………、とするような話だが、じつは、これとそっくりなイエス伝説がインド大陸に存在するのである。
  • インド・チベットのイエス伝説
    この項は雑誌ムー二〇〇四年七月号他ネットサイトからの引用です。
    インドの北方カシュミール地方ー、インド北西部の中国とパキスタンに国境を接する高原地帯のスリナガルという町に「イッサの墓」と呼ばれる謎の霊廟がある。
    このイッサとはイエスのことで、イスラム教でのイエスの呼び名「イーサー」からの転訛なのだ。
    この墓を発見したのは、シカゴ大学のゲール博士で、博士はこの他に、「バビシャ・マハープラーナ」という二世紀ごろのヒンドゥー教古聖典の中に次のようなサンスクリット語の記述を発見した。
    「自らを《イシュバラ・プタラム、イシュ・マシー、カニシャ・ガルバム》と名乗る異国からの聖者が王を訪ねてきた…」これを翻訳したところ、イシュバラ・プタラム=神の子、イシュ・マシー=メシア・イエス、カニシャ・ガルバム=処女から生まれた、と翻訳されたという。
    つまり、イエス・キリストがインドへやって来たと語り継がれていた記録だったのだ。
    痕跡はこれだけではない。
    イスラム教神秘主義者スーフィーズムの研究家バークは、一九七七年にアフガニスタン北西部の町ヘラートで一千人以上の「マルヤムのイーサーの信者」の集落を発見した。
    マルヤムとは聖母マリヤであり、イーサーとはイエスのアラビア語読みで、共にコーランに出てくる名前である。
    ここにはイエスが死を免れてインド地方のカシュミール地方に逃れてきたという伝承が残っていた。
    しかも、この集落の指導者の初代の名が「ユズ・アサフ」。
    「ユズ」とはイエスのサンスクリット語に訛化した「イッサー」が、さらにカシュミール地方語に訛化したものである。
    「アサフ」とは、同じくカシュミール地方語で「集める者」の意味。
    これを直訳すると、「イエス・集める者」、つまり、「散らばった羊を集める牧者」というイエスの別称と意味が附合する。
    これを始めとして、インドにはイエスの訛化と思われる言葉が多く伝わっていたというー。
    ユズ・アサフが日本語に転訛すれば、ウズ・マサ(太秦)ともなるのではないかー。
    一八七七年には、ロシアの探検家・ニコラス・ノートヴィッチが、カシュミール地方で古写本を発見した。
    そして、フランス語に翻訳して出版したのが『知られざるイエス・キリスト伝』で、聖書には記されていないインド大陸でのイエスの生涯が記されていた。
    インドの初代首相だったネルーも、ペルシアからインドにかけて残る様々な伝承・遺跡を実見し、「中央アジア全域、カシュミール、ラダック、チベット、さらにその北方にもイエス・イッサが旅したという伝説が今なお根強く生きている」と娘に宛てた手紙に記していたという。
    古代の日本には、大陸から多くの渡来人がやって来たという。
    その中に、この伝説を持っていた者が渡来してきたなら、伝承は渡来者と一緒に渡来してきたのだ。
    キリスト伝説が残っていても不思議ではない。
    ポイント点は、青森のキリスト伝承がホントかウソかではなく、ここに伝承が存在すること自体なのだ。
    キリスト伝承を記す竹内文献も、渡来者と共にやって来た記録である可能性が高い。
    竹内文献には、キリスト以外にもモーゼ・釈迦など、古代の賢人がやって来たと記されている。
    だが、天皇の元へやって来たと記されていたのであって、それを日本列島へやって来たと解釈したのは後世の日本人なのだ。


  • 黒又山
    秋田県鹿角市十和田大湯の黒又山については冒頭で触れた。
    黒又山についての酒井の記録はない。この当時、まだピラミッドの話は出ていなかったものだろう。
    環太平洋学会の調査で、七段から十段のテラス状の人工構造物である可能性があるという。頂上の神社の真下十メートル程度のあたりに空間があるとも指摘された。
    黒又山を中心に、周辺の古代祭祀跡と思われる巨石遺構や、小クロマンタ・十和利山・白山・大湯ストンサークル・鹿倉山・岩木山・三内丸山といった山々が、方位線で結ばれているともいう。
    全体的な調査での結論では、この当時の南北線が五度、西北方向へ傾いていたといい、この天文シュミレーションから、四〇〇〇年前ごろの建造ではないかと推定されている。
    東北地方では、三角形の山を「靄(もや)山」と呼び、このような三角形の山は、黒又山の他にも十三湊や三内丸山遺跡の近くにも見受けられ、集落のシンボルであったと云われる。

    大湯ストーンサークル
    大湯環状列石についても冒頭で触れた。酒井らはこの時、大湯の環状列石に立ち寄っている。
    このときには、昭和六年に発見の万座遺跡しかなく、野中堂はまだ発見されていなかった。
    野中堂は田圃の下に隠れていたわけだが、竹内巨磨は「道路の向こうにも遺跡がある」と、野中堂の存在を予見したと言われる。
  • 竹内事件
    昭和五年に始まった竹内文献の弾圧は、それ以後も続いており、酒井や竹内巨磨の周囲には常に官憲の眼があった。
    葦嶽山発見を記した酒井の著書「太古・日本のピラミッド」も発禁処分を受けている。
    内務省が竹内巨磨の逮捕に踏み切るのはこの翌年、昭和十一年二月のことである。時代は、対中戦争開戦前であり、二・二六事件が起こるのはこの年二月、巨磨の逮捕がその半月前であり、竹内文献弾圧は軍部の勢力争いの一端だったのではないかとも言われる。
    酒井もまたこの年の九月、内務省の取調べを受けている。

    神秘の日本
    こういう事態にあっても酒井は不屈の人物であった。
    その年十月、酒井は雑誌『神秘の日本』を創刊した。
    「日本は神秘国である。時を問わず、いつ・だれが・どこから見ても日本は神秘国である」。
    自らの信念に基づき、『神武以前の日本の正体』を開示すべくー、何人も否定することの出来ない事実の蒐集(しゅうしゅう)を目的として、『神秘の日本』は刊行された。
    それは、当局との壮絶な戦いの日々だった。
    無論、酒井の発行した『神秘の日本』は、即時、発禁処分をうける。
    印刷所から届いた『神秘の日本』が待ち受けた特高に押収されていく。しかし、また印刷する。  
    それは、イタチごっこのように繰り広げられていった。
    それは、昭和十一年の創刊から死去する昭和十五年までの四年間、かれの全精力を傾けて刊行しつづけた。
    酒井の生涯は、最後の四年間に凝縮された。全国の愛読・支援者から、続々と寄せられる情報を元に一つ一つ探査がつづく。
    そして昭和十二年、運命の情報が彼の元に届いたー。



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