酒井勝軍は飛騨においてピラミッドの十六方位を発見した。
飛騨の多くの磐坐のある山は、丹生川村の日輪神社を中心にして十六方位で結ばれた。
これは、飛騨特有のことなのか…。この疑問を抱き、八幡山を中心に十六方位を描いてみた。
……おどろくなかれ、ここでも又、八幡山を中心に兵庫県の一〇〇〇メートル級の山々が十六方位で結ばれたのだ。
この十六方位の出現にはおどろいた。自然の山と思っていた山々が、なぜ方位で結ばれるのかー。
当初は、市販の地図に十六方位線をエンピツ書きで描いた。まちがいではないかと何度も何度も書き直してみた。
兵庫の山はいずれもそれほど高くない。一〇〇〇メートル級の山々は少ないのだ。
その八〇パーセントの山々が方位線上に存在し、その中には竹内文書に記される山がある。
奇妙ー?奇妙ー? それだけで幾日も過ぎた。
偶然なのか必然なのかー、疑問はさらに膨らんだ。
地図の中に、一〇〇〇メートル以下の奇妙と思われる山々を書き足していくと、それらも不思議に方位線の上にある。
竹内文献の山
この中の竹内文献に記されている山は、北北西線上の但馬・八鹿町の妙見山(一一三九M)である。頂上近くに名草神社があり、古来、山岳信仰に使われてきた霊山である。
竹内文献に現れる兵庫県の山は全部で五つー、 妙見山の他に、但東町の三国
山(五七七M)と生野町の三国岳(八五五M)は、いずれも千メートルに満たない山で元地図には出ていなかった。
竹内文献に、播磨国「ヒミジ仙洞」と記される山があり、これは姫路城のある姫山のことなのだろうかー?
現在の知識ではこの程度のことしか思い浮かばなかったのだが、この姫路地名から謎が解けて行くことになる。(参照→姫の国への道標)
南北の一直線
地図を見たからこそ気づくことがある。
八幡山から僅かにずれているが、兵庫最北の城崎の来日岳、八鹿町の舞狂山、福崎町の日光寺山、下って高砂市の高御位(たかみくら)山の四山が、見事に一直線上に並んでいることが分かる。
高御位山は巨石のある山で、南方に、奇妙な大巨石で知られる「石の宝殿」がある。
石の宝殿には、酒井勝軍も見学に来たようで、大巨石の上に何か埋まっている可能性があると指摘している。
南西の書写山・東南の六甲山
南西方位には姫路の書写山ー、山上の円教寺は古刹として有名な山であり、東南方位の六甲山もまた、竹内文献に記されている山だ。
この十六方位線には、兵庫で有名な山がすべて存在しているのである。
だが、十六方位の不思議はこの程度には留まらなかった。
草創の古代史を指す方位線
この線上に奇妙な存在を発見するのは、だいぶん後のことだった。
十六方位線は、日本草創の古代史を示唆していたのだ。
それは、真ん中に真っ直ぐに伸びた南北線だった。
高御位山から南へ進み瀬戸内海を下り淡路島へ突き当たる。
ここに、国生み神話の神社が存在していたー。
オノコロ島神社である。
-
国生み神話のオノコロ島
オノコロ島神社は淡路島の南淡町ー、島を縦断する高速自動車道・南淡インターの東北側の平坦地に建っている。
ピラミッドといえる山上ではないが、町そのものが小高い丘の上にある。
祭神は、伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊弉冉尊(イザナミノミコト)ー、国生み神話に係わる神社だ。
オノコロ島は、イザナギ・イザナミの二神がこの島に降り立って、最初に造ったのが八尋殿(やひろどの)であり、酒井はそれがピラミッドだと指摘した。
ーオノコロ島神社を創建した者は八幡山十六方位を知っていたというのか?
だが、八幡山十六方位の不思議は、オノコロ島だけで終わりではなかったのだ。
国生み神話では、このあと、ヒルコ・アワ島を生むのだが、これを不出来として流してしまう。
次いでそのあと、大八島を生む。
大八島とは、アワジ(淡道)・イヨ(四国)・隠岐の島・ツクシ(筑紫・九州)・イキ(壱岐の島)・ツシマ(対馬)
・サド(佐渡)、そして、大倭豊秋津島(大和)の八島ー。その後に生むのが六つの小島である。
六つの小島は、吉備の島・小豆島・大島・姫島・五島列島・男女群島の六つに比定されている。
これらの島が方位線上に存在する(地図参照)。
ゴチック表示がすべて、八幡山十六方位に存在する。
ここまでの多くがすべて偶然などということはない。
これはも早、必然である。
これを見て、それでも偶然だと思える方は、も早ノーテンキ…、古代史には縁がないと言われても仕方がない。
八幡山の十六方位は、まちがいなく、日本草創の古代史を示唆している。
この方位線上には封印された日本の古代史が示されているのではないかー。
八幡山は、西日本の中心に存在したピラミッド山だったのだ。
自凝島(オノコロシマ)
さて、問題のオノコロ島である。古事記の冒頭は神世七代から始まり、そのあと、国土の修理固成が始まる。関係ヵ所を引用するとー、
・・・天津神たちは、伊耶那岐(イザナギ)命と伊耶那美(イザナミ)命に、「この漂っている国土を有るべき姿に整え固めよ」と命じ、天の沼矛(アメノヌボコ)をお授けになった。
二神は天の浮橋の上に立ち、そ
の沼矛で国土を掻きまわし、沼矛を引き上げると、沼矛の先から滴る潮(塩)が積もって島になった。
これを、淤能碁呂島(オノコロシマ)という。
- (古事記原文)
詔伊邪那岐命伊邪那美命二柱神。修理固成是多陀用幣流之國。賜天沼矛而。言依賜也。故二
柱神立天浮橋而。指下其沼矛以畫者。鹽許袁呂許袁呂迩 畫鳴而。引上時。自其矛末垂落之
鹽。累積成嶋。是淤能碁呂嶋。
………中略………イザナギ命とイザナミ命がオノコロ島に降りてみると、その島には、天の御柱と八尋殿(ヤヒロドノ)があった。
………中略………このあと二神はヒルコとアワシマを生むが、ヒルコは葦の船に入れ
て流し去り、アワシマも子の数に入れなかった。
(古事記原文)
其嶋天降坐而。見立天之御柱。見立八尋殿。・・・中略・・・生子水蛭子。此子者入葦船而流去。
次生淡嶋。是亦不入子之例。
このあと、大八島と六つの小島を生む。分かりやすく箇条書きするとー( )内が比定地。
(古事記原文) 生子 淡道之穗之狹別嶋(淡路島)。
次生 伊豫之二名嶋(四国)。此嶋者身一而有面四。毎面有名。故伊豫國謂愛比賣。(以下、省略)
次生 隱伎之三子嶋(隠岐島)。亦名天之忍許呂別。
次生 筑紫嶋(九州)。此嶋亦身一而有面四。毎面有名。故筑紫國謂白日別。(以下、省略)
次生 伊岐嶋(壱岐島)。 次生 津嶋(対馬)。亦名謂天之狹手依比賣。
次生 佐度嶋(佐渡島)。 次生 大倭豐秋津嶋(本州)。(以下、略)
以上が大八島。
然後還坐之時。
生 吉備兒嶋(岡山県の児島半島)。 次生 小豆嶋(香川県の小豆島)。
次生 大嶋(山口県の屋代島?)。 次生 女嶋(大分県国東半島沖の姫島)。
次生 知訶嶋(長崎県五島列島)。 次生 兩兒嶋(五島列島南の男島・女島?)。
以上、六つの小島
- 隱伎之三子嶋
漢字の羅列で見難かっただろうが全部を読む必要もない。問題はオノコロ島である。
イザナギ・イザナミが掻き廻した矛の先から滴った潮塩が固まった島が、淤能碁呂島(オノコロシマ)だという。
オノコロ島神社の漢字表記は、自(みずか)ら固まった島という意味で、自凝島神社と示されている。
この「自凝島」を、あなたはふり仮名なしで読めるだろうか。ふり仮名があるからオノコロジマと読んでいるのではないかー?
まず、ふり仮名なしで読んでみて戴きたい。何と読めるだろう。
この神社の読みそのものに、オノコロ島の所在が示されていたのだ。
それは、古事記の記述ー、淡路島から三番目に生んだ島ーここでちょっと待て・・である。
実はここからが問題だったのだ。
ここに重要ヒントが示されている。隠岐島と比定された島である。
多くの読み手、いや、全部の読み手が、淡道は淡路、次に生んだのは四国、次が隱伎嶋と、先人が解釈した説明書きをそのまま鵜呑みにした。
確認したものがいなかったのだ。
古事記には、隠岐島とは書かれていない。「隱伎之三子嶋」と書かれている。
ご存知だろうかー?隠岐島と隱伎之三子嶋とは同じではない、異なるのである。
隠岐島の地図をご覧いただきたい。
隠岐島はひとつの島ではなく多くの島の集合体なのだ。
説明文によればー、
隠岐諸島には島前と島後があり、島前は「島前三島」と呼ばれる知夫里島(知夫村)・中ノ島(海士町)・西ノ島(西ノ島町)から構成される群島で、島後は、島後島(隠岐の島町)の一島で構成される。
主な島はこの四島だが、付属の小島は約一八〇を数える。
お分かりだろうかー。
古事記が記した「隱伎之三子嶋」とは隠岐の島全部ではなく、島前三島のことだったのだ。
さらに古事記の記述は、隱伎之三子嶋の亦の名は「天之忍許呂別」だと記す。
天之忍許呂別→「アメのオ・コ・ロ・ワケ」ではないか!
別は「分かれた」という意味だから、「オのコロから分かれた島」と書かれているのだ。
これが、隠岐の島前三島のことなのだ。
ーならば、元の島はどこか。
ここまで来れば、誰でも分かるだろう。
オノコロ島とは、隠岐の島後島に他ならない。
淡路島の「自凝島神社」は、そのまま「おき島神社」と読めるのではないか。
この神社を漢字表記した人物は、正に、古事記の謎を承知していたのだー。
- 歴史の開始点
これまで、歴史の始まりは瀬戸内海の真ん中の淡路島からとされてきた。
なぜ始まりが瀬戸内の真ん中からなのかー、誰もが最初は奇異に思えたはずだ。
だが、多くの奇妙な説明に惑わされ、何となく了承し、やはり神話・お伽噺なのかなと納得した人も多いはずだ。
だが、古事記冒頭のオノゴロ島が、大陸と日本列島の間に存在したなら、古事記の話は現実味を帯びるはずだ。
日本列島には、古来、大陸から多くの人が移住してきた。これが現在の歴史観である。
古事記はオノゴロ島に降りた後、ヒルコとアワシマを生んだと記すが、この二者は、後世の歴史家によって奇怪な存在にされている。
ヒルコは、骨のない子という記述から二神が生み損なった不具の子供・未熟児・奇形児などと奇妙な解釈がなされ、アワシマは沼津市の淡島、和歌山市友ヶ島の神島、淡路島南部の沼島など、まったく根拠のない説がある。
だが、地図を見れば簡単明瞭ー、オノゴロ島に比定される隠岐・島後島は、島根半島・北方約五〇キロにある。
ヒルコ・アワシマの後が淡路島なら、この間にあるのは、本州である。
さらに、淡路島の古事記の記述は「淡道之穗之狹別嶋」・・ここにも、ヒルコ・アワシマの位置を示すヒントが書かれている。
だが、残念ながら、アカデミー学者にはこの漢字の意味が解けないのだ。
むろん、ヒルコもアワシマもひとつの場所を示している。
大体、国生み神話の途中に人間の子供が混ざっている方がおかしい。
それを未熟児や奇形児などと人の子として捉えているのは余りにも額面通りで、古事記を百科事典同様に思っているらしい。
古事記は一筋縄で解ける文献ではない。
穗の狹別嶋・・この意味が分かれば、ヒルコ・アワシマの位置が分かる。
穗とはなに?狹とはー? (詳細→姫の国への道標)
ひとつの疑問は更に次の疑問を呼ぶ。これらの謎は、ピラミッドラインを追って行くことで解けていく。
それは過去の日本人が持っていた知識であり、現在の日本人が失った知識であり、歴史の中の為政者たちが覆い隠した知識でもあるらしい。
漢字の導入
その原因のひとつに、仏教導入とともに用いた漢字にもあるらしい。
漢字の導入で、それまで使われていたすべての言葉に漢字を充てた。
しかし、全国統一で充てられたわけではない。
全国の様々な場所で、不統一な漢字知識の元で充てられていった。
ひとつの言葉に、別々に、しかもそれぞれ複数の漢字が充てられたことにより、ひとつの言葉が三つも四つもの形を持ち、さらに、充当漢字によって別の意味を持つことになってしまった。
これによって、漢字で作られた日本の古文書類は、意味不明・難解な文書となっていった。
それを鵜呑みにしたアカデミー学者によって、曲解した史実を基にして、更にここからも、多種多様なウソ話が構築されていく。
その積み重ねが現在の日本の歴史だと云ってもいい。
ピラミッドラインを追っていくと、それが現われてくる。
そして、バラバラに充てられたように見えた地名漢字には、信じ難い謎が仕掛けられてもいた。
- ピラミッドライン
日本のピラミッドラインには、古代の事実の歴史が刻印されているらしい。
十六方位を結んで張り巡らされたピラミッドラインは、事実の古代史を記録したラインかもしれない。
ひとつの文書にはウソが書ける。
しかし、地域を結んだラインでは、ウソはどこかで暴かれる。
それぞれの地域に刻印された歴史は、ウソで固めようとしても固めきれるものではない。
どこかで綻びが生じていくのだ。
十六方位のピラミッドラインは、失われた歴史を取り戻すための指標になっている可能性がある。
どのような異変に遭遇しても必ず生き残る歴史書・・、失われた歴史を取り戻すためのラインであり、古代人が考え出した究極の一手だったかも知れない。
酒井勝軍も指摘しているがー、ピラミッドは単体で存在するのではなくラインで機能する。
そしてそれは、ピラミッドそのものに示唆されている。
そのひとつが、ピラミッド配置である。
これは、昭和初期の酒井の時代には存在しなかった。
はるか後年、一九九四年になってエジプトのピラミッドから発表されたピラミッド説である。
オリオン・ミステリー
一九九四年、エジプトの三大ピラミッド配置とオリオン座の三ツ星の配置が一致していることを発見した。
それが『オリオン・ミステリー』である。
発見者は、ロバート・ボーヴァルとエイドリアン・ギルバート兄弟。
ボーヴァルは、 エジプト古王国時代に星辰信仰、特にオリオン座への信仰があったことを述べ、大ピラミッドのシャフトが紀元前二四五〇年頃のりゅう座α星(当時の北極星)、オリオン座ζ星(三ツ星の左端)、シリウスに向かっていることを指摘して、ギザの三つのピラミッドの配置が三ツ星と一致していることを示した。
これが、一九九四年に発表された『オリオン・ミステリー』である。
オリオン・ミステリー説では、この後、三大ピラミッドと星座の配置と一致が細かく述べられていくのだが……、
ピラミッド配置
ここでの主要問題は星座信仰ではなく、オリオンの三つ星と三大ピラミッドの配置である。
下図は、オリオン座と三大ピラミッドの配置図である。
二つの図は上下が逆転するが、オリオンの三ツ星は一直線ではなく、一番と二番を結んだ線に対して三番目の星が少し上にずれて他の二つに比べて星が小さい。
三大ピラミッドの配置もクフ王とカフラー王のピラミッドを結んだ線に対して、三番目のメンカウラー王のピラミッドが右へずれて小さい。
オリオンの三ツ星と三大ピラミッドの配置は、たしかにぴったりと酷似している。
三大ピラミッドがオリオン信仰をベースに創られた可能性は高い。
これと同様のピラミッド山配置が、日本のピラミッドにも見られるのだ。
次章から全国のピラミッドと云われる山々、および、兵庫の磐坐の山を紹介していくが、これらの山々の中には、たしかに三ツ星配置が存在している。
その配置はエジプトのように角度まで正確という訳ではないが、多くのピラミッド山には、たしかに三つの高峰が並び、三ツ星配置に似せているのだ。
論より証拠ー、その実例を実見していただくのがもっとも分かりやすいだろう。
三ツ星配置
本編のメインである八幡山にも確かに三ツ星配置が見られるのだ。
八幡山は単体の独立山ではなく、八幡山ー入炭山ー大嶽山とつづく連峰であり、この三峰配置は確かに三ツ星配置に似せてあると言っていい。
酒井勝軍の広島葦嶽山についても同様で、巨石のある鬼叫山と本峰の葦嶽山を結ぶ線上にはもうひとつの高峰が存在する。
多くのピラミッド山を見ていくに従い、そこから更に新たな疑問が浮かび、長いピラミッドの歴史が浮かび上がってくる。
まず、多くのピラミッド山で実例を実見して頂きたい。
三ツ星配置の共通性と、そうでない配置の共通性が浮かび上がってくるはずだ。
さらに…、このピラミッドラインには、日本の歴史だけでなく世界の歴史に遡って行く謎が組み込まれていた。
日本の重要な山々は、実に北緯・東経に関係していたのだ。
神代の残像を辿っていくことにより、ピラミッドラインの謎はさらに深まっていくだろう。(→神代の残像最終章)
ーピラミッドは単体で存在するのではなく、全体として存在する。
酒井勝軍の指摘は、八幡山十六方位ラインで如実に現実化していくのである。
NEXT→第二編 日本・兵庫のピラミッド案内
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