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第二編 日本・兵庫のピラミッド案内


   その三 陰陽道と修験道

  • 有史以降のピラミッド山には、修験道・陰陽道が関係しているらしく、陰陽師や修験者の足跡が見られる。
    磐坐の神々が里の神社で祀られるようになり、磐坐と神社が別物にされていったことから、山の磐坐は陰陽師や修験者にのみ伝えられていったものらしい。

    修験道
    森羅万象に命や神霊が宿るとする古神道の一つである神奈備(かむなび)や磐座(いわくら)という山岳信仰と仏教が習合し、さらに、道教・陰陽道などの要素も加味されて確立した日本独特の宗教である。
    日本各地の霊山を修行の場とし、深山幽谷に分け入り、厳しい修行を行うことによって、超自然的な能力ー験力ーを得て、衆生の救済を目指す実践的な宗教でもある。この山岳修行者のことを、「修行して、迷妄を払い験徳を得る」ことから修験者、または、山に伏して修行する姿から山伏と呼ぶ。

    修験道は、奈良時代に成立したとされ、役小角(役行者)を開祖と仰ぐが、役小角は伝説的な人物で、史実は不詳である。
    役小角は、終生を在家のまま通したとの伝承から開祖の遺風に拠って在家主義を貫いている。
    修験道は、平安時代ごろから盛んに信仰されるようになった。
    平安初期に伝来した密教との結びつきが強く、鎌倉時代後期から南北朝時代に、独自の立場を確立した。
    密教との関係が強かったことから、独立した宗教ではなく、仏教の一派ともされる。

    江戸幕府は、慶長十八年(一六一三年)に修験道法度を定め、真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに属さねばならないことにした。
    明治元年(一八六八年)の神仏分離令に続き、明治五年、修験禁止令が出され、修験道は禁止された。
    また、廃仏毀釈により関係する物などが破壊された。
    修験系の講団体のなかには、明治以降、仏教色を薄め
    て教派神道となったものもある。御嶽教・扶桑教・実行教・丸山教などが主で、教派神道にもかかわらず、不動尊の真言や般若心経の読誦など神仏習合時代の名残りも見られる。
    神仏分離令・修験禁止令そのものは、日本国憲法で定められた信教の自由に反するため、現在では無効である。

    陰陽師(おんみょうじ)
    陰陽師とは、古代日本の律令制下で、中務省の陰陽寮に属した官職のひとつで、陰陽五行の思想に基づいた陰陽道によって、占筮(せんぜい)、および、地相などを行う方技(技官)として配置され、のちには、本来の律令規定を超えて占術・呪術・祭祀を司さどるようになった職掌のことをいう。
    平安時代では、最先端の学問(呪術・科学)だった「天文道」や占いなどを、体系としてまとめた思想が陰陽道であり、陰陽道に関しての知識を習得したものが陰陽師である。

    中世以降は、民間で個人的に占術・呪術・祭祀を行う非官人の者を指すようになり、現代では、私的祈祷や占術を行う神職の一種とされている。
    三国志の諸葛亮公明は、天文に通じていた。有名な赤壁の戦いでは東南の風を吹かせたことで有名だが、公明は、四季のある時期の数日間だけ風の向きが変わることを知っており、それをあたかも自分が吹かせたように見せたとも云われる。
    現在の天気予報のようなものだが、高い山の峰に雲が降りて来ると雨が降るという天気予報は現在でも生きている。
    白い靄が山を登っていくとまだ降る。
    靄が山を下ってくると晴れる。高気圧が上空をおおい、山の上から靄が消えていく様が靄が下っているように見える訳だ。
    色々な科学機器のなかった時代は、過去の実例からこのように予測していた。
    彼らが、あらゆる分野での過去の実例を網羅していた者と解釈すれば理解しやすい。
    後年の修験者や陰陽師たちは、胡散臭い存在として片付けられている。
    磐坐の山は、歴史の経過の中で修験道に伝播され、歴史の外側に存在するものとして表の歴史から隔離されていったらしい。

    有史以降の磐坐山には、どこかで修験者・陰陽師の存在が係わってくる。
    五~六世紀からの役小角・行基・法道仙人、さらには、九世紀の空海なども浮かんでくる。
    さらにー、九世紀の空海は、ピラミッド思想を把握していた形跡がある。
    それは、ここまでに見てきたピラミッド山の配置である。ピラミッド山の配置がオリオンの三ツ星配置に似ているという点で、ここまで確認してきたと思う。
    しかし、ピラミッド山には、それとは異なった配置があったことに気づかれただろうか。

  • 三山配置
    その一つは、飛騨位山の三山ー、三つの山を一抱えにして位山三山と呼ばれている。
    その二つ目に奈良の大和ー、大和三山と呼ばれる三つの山は、古来、大和の象徴的な山として扱われてきたらしい
    さらに、兵庫の伊和神社ー、三山がセットで三つ山と呼ばれ、神社はこの三山の真ん中にある。
    ーが、これは単なる象徴ではなかったのだ。
    これらの三山がすべて、三角配置になっていることに気づかれるだろう。
    この三角形の配置にこそ、重要な意味が込められていたのである。
    飛騨位山は飛騨一宮とされる水無神社のご神体山であり、兵庫の伊和神社は播磨の一宮であり、大和三山のすぐ傍には大和国一宮の大神(おおみわ)神社がある。
    大和三山の畝傍山ふもとには、神武天皇御陵の橿原神宮があるが、橿原神宮は一宮ではない。
    この場所は、記紀で初代天皇とされる神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされる土地で、明治二十三年(一八九〇年)に創建されたもので古社ではない。
    三角形の三山配置は、一宮のある場所にのみ存在する配置であり、すなわち、これがホキのホである。
    ホキについては簡単に述べても理解できない。
    しかし、ホキを知らなければピラミッドも神社も理解できない。(参照⇒姫の国の道標など)

    さらに、島根県の三瓶山では、四山が環状に存在し、真ん中が神聖視された場所だったと記録にある。
    ここでは山は三つではなく、四つになっている。
    兵庫の伊和神社にも三山以外に一つ山と呼ばれる四つ目の山が存在している。
    ピラミッドは三つではなく、四つ目が存在するのではないかー。
    エジプトのピラミッドにも、四つ目が存在しているのだ。
    そしてー、空海は、それを知っていたのではないかー。
    それは、空海の眠る高野山の弘法大師廟の位置である。
  • 空海大師廟の位置
    高野山には、ここまでに一度だけ触れた。高屋山である。飛騨に高屋山があり、九州の霧島に高屋山があった。
    九州の高屋山に葬られたのがホホデミ尊であり、ホホデミ尊はその死後に八幡神として勧請されたと竹内文献は記していた。
    高屋山は「たかやさん」だが、「こうやさん」とも読める。
    高屋山も高野山も「こうやさん」だったのかー。
    ーが、ここでの問題は、漢字の読みではない。
    和歌山の高野山には高野山という名の山はなく、楊柳山・摩尼山・転軸山の三山の総称を指した。
    これらの山の名前は仏教用語である。
    転軸山の「テンジク」などは、天竺の漢字違いであることは明白だ。
    つまりこれらは全て、空海が名づけた山名なのだ。
    そして、空海の霊廟は三山の中にある。
    まさしく、これまでの三角配置と相似形だが、これにもあるいは、四つ目があったのではないかー。
    名前のある山は三つだが、左上にもうひとつの峰が存在するだろうー。
    これを四つ目とすれば、弘法大師廟は島根県の三瓶山、兵庫の伊和神社と同じ配置になる。
    空海が唐から持ち帰った真言密教とは、ピラミッドの思想をベースにしたものだったのではないかー。
    ポイントは八幡神である。八幡神とはなにかー。
    八幡神には、日本古代史の謎を解くすべてのカギが隠されていたのだ。




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