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卑弥呼の宮殿跡?纒向(まきむく)遺跡
纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で3棟の建物の柱穴の発見が報じられ、卑弥呼の「宮室」(宮殿)跡ではないかと騒がれていますが・・・。
●纒向(まきむく)遺跡の宮殿跡
東西に並んだ最も大きな東の建物の柱穴の基礎図に注目です。
2009年11月16日、NHKで放送していた柱のCGI画像から推測しましたが、下記左図と似たような形になっていますね。出雲大社の基礎図と同じです。

出雲大社の基礎柱図

上と下の真ん中の柱が一直線
ではなく、上下にずれている
古代史冊子をご覧になった方なら、
ここまでお話しすると分かると思います。
この基礎図が意味しているものは、陰陽道(裏神道)の「迦波羅」(カッバーラ)、すなわち、ユダヤ教神秘主義のカッバーラの中心となる思想で、この基礎図が表わしているのは、「生命の樹」の図です。(右図)
カゴメカゴメの
カゴメ唄の最後に現われるのは、この生命の樹です。
●大国主と大汝は別人か
通説では、出雲は島根とされていますが、これは確実に怪しい。
もう一点は、通説の解釈で、
大国主と大汝(オオナムチ)は同一人物とされていますが、これもどうかー。
記紀では、二人は別人となっていて、同一人物と言うのは後世の学者さんの解釈のようですね。
 
竹内文献では、大汝(オオナムチ)尊は、ニニギ尊の親王でウガヤ・フキアエズ朝二〇代天皇として記されています。
同じニニギ尊の親王としてニギハヤヒ、スクナヒコがいます。
大国主(オオクニヌシ)はスサノオ尊の系統で、すなわち、国津神。
大汝(オオナムチ)は、天孫系だが、ウガヤフキアエズの系統・・という別人ではないか。
天孫系の本系統は、ホホデミ尊=神武天皇の系統。
 
ここまで推定すると、纒向(まきむく)遺跡の宮殿は、
大汝(オオナムチ)系=ウガヤ・フキアエズの系統ではないかー、という推定になります。
そして島根の出雲も同じ系統か・・。

記紀では、ウガヤ・フキアエズ朝はその最後の七十三代目で神武天皇に集合されたようになっています。ウガヤ朝七十三代・狭野(サノ)命=神武天皇=ホホデミ命で、すべて、神武天皇に統一されたようになっています。
これからすると、ウガヤ・フキアエズ朝は紀元前七二〇年ごろに始まり、紀元前六〇〇年に終了した王朝となりますが、この記述に、あるいは、創作が加わっているかもしれません。
 
ウガヤ・フキアエズ朝が、そのまま継続して、紀元三世紀まで存続していた可能性があるなら、
島根の出雲も大和も、ウガヤ・フキアエズ朝の後継王族だった可能性があります。
つまりー、
十五代応神天皇が東征で戦った相手は、ウガヤ・フキアエズ朝の末裔=日高見だったことになりますがー、このあたりはまだ検証していません。
●邪馬台国は、ウソ話なのか?
「鬼道」は天皇家にはない。
卑弥呼が魏に使節を送った「景初二年」は朝鮮半島で対魏戦争のあった年で、魏への使節は通れない。
後世の日本書紀で、これを一年後の「景初三年」と書き直しているのが、記紀の作者は「通れなかった年」である事を承知していた事になります。
 
日本考古学会の竹田日恵氏はその著書の中で、「倭人伝」は「魏志韓伝」の反対の話を記した偽書としています。
魏志韓伝の主役は「優呼(ゆうこ)」で、こちらが「卑弥呼(ひみこ)」、
これだけでも「おかしいな」と思えますがー。
「倭人伝」と「韓伝」を読み比べると、まったく、正反対の内容になっているとしています。
 
そして、当初の魏志には、「倭人伝」はなかった・・・これは事実のようです。
魏志に倭人伝が付け加えられたのは、著者の陳寿が死んで後、百二〇年後のことだと言います。
著者がなぜこれを発表しなかったのか・・・

景初二年の時代は朝鮮半島が三韓の時代で、馬韓・震韓・弁韓はカラ国(東大国)の一郡だった。
陳寿はカラ国(東大国)の存在を打ち消して、朝鮮半島をバラバラの国に仕上げようとした。
倭人伝は、後世の小説のような、根と葉のある大河小説だったことになります。

事実と異なった歴史書は発表してはいけない・・・これが著者・陳寿の意図ではなかったかと言います。
ただ、陳寿はなぜ焼却処分にしなかったのか・・これもおかしいのですが。
詳細は⇒竹田日恵氏の著作をお読みください。

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不思議の古代史