マネトの「エジプト誌」

このアマルナ革命について、古代エジプトの神官マネトの「エジプト誌」には、アメン神官団から見た立場で、次のように記している。
※セベンニトスのマネトとは古代エジプトの書記で、下エジプトのヘリオポリスの神官でもある。「エジプト誌」は、彼が紀元前二八〇~二五〇年頃に書いた歴史書である。

エジプト誌「アメノフィス王」の項

…アメノフィス王は、王と同名の賢者に「神々と面会するにはどうすれば良いか?」と訊ね、「レプラ患者と不浄の人々を国から追放せよ」という助言を受ける。
この助言に従い、王は、八万人の「汚れた人々」をナイル東岸の石切り場に隔離した。その中には学識ある神官たちも含まれていた。
石切り場に隔離されて働かされた「汚れた人々」はエジプトへの反逆を誓って、自分たちの仲間から指導者を選んだ。
それが、「オサルシフ」という人物で、彼は自分たちの為の新しい掟を作る。
ーエジプトの神々を崇拝してはならない。
ー彼らが崇拝する動物はことごとく殺す。
ーここの仲間以外とは一切交流を持ってはならない。
この「汚れた人々」は、一時期エジプトに攻め入って占領、アメノフィス王を追放して後、十三年間、極悪非道の限りを尽くしたという。
それから十三年後ー、報復のために戻ったアメノフィス王とその息子に攻め込まれ、多くを殺されたあげく現在のシリア国境へと追い立てられた。
以上が、マネトの記録である。

汚れた人々=アテン教徒

ここに記された「八万人の汚れた人々」とは「アテン教徒」を指し、ナイル東岸の石切り場とはテーベから都を移したアマルナのことだ。
また、仲間から指導者に選ばれたオサルシフとは、聖書での「モーゼ」らしく、シリア国境へ追い立てられたのが、出エジプト記の「モーゼとユダヤ人」ということになる。そして、極悪非道の限りを尽くした十三年とは、アマルナでのアテン神への異端信仰の十三年間を指す。
アメン神官のマネトからすれば、アテン神信仰は異端でありアテン教徒は「汚れた人々」だった。
聖書の出エジプトとは、アクエンアテンの死後(=十三年後)、シリア国境へ追放された「アテン教徒の残党」という事になる。

抹殺された四王

事実の歴史では、この間、
アメンホテプ三世→アクエンアテン(アメン四世)→
スメンクカーラー→ツタンカーメン→アイ→ホルエムヘブ
と、六人のファラオ(王)が存在しているが、このうち、アクエンアテンからアイまでの四人はアビュドス王名表から削除され、歴史から抹殺されていた。
-ので、マネトは「四人の王」の存在を知らない。
アメノフィス王とその息子とは、アメンホテプ三世とホルエムヘブ王に比定され、彼らをシリア国境へ追放した王とは、軍人上がりで王になったホルエムヘブのことになる。

モーゼはエジプト人か?

また、汚れた人々のリーダーのオサルシフが「モーゼ」なら、彼はユダヤ人ではなくエジプト人だったことになる。

アクエンアテンの宗教改革は彼の在位期間のみで、ふたたび、アメンラー神の多神教に戻った。
首都も再びテーベに戻り、それを行ったのがアクエンアテンの子、ツタンカーメンの時代だったが、それを指揮したのは宰相のアイ(後のファラオ)らしい。
「汚れた人々」をシリア国境に追い立てたファラオは、軍人上がりのホルエムヘブ王だと言われている。