●日本ピラミッドは兵庫県にも存在した!

日本にピラミッドがある!

黙示
酒井勝軍の生まれは明治六年ー。
山形県の士族の家に生まれた彼は仙台神学校に入学、クリスチャンとなる。
明治31年、アメリカに留学、帰国後は新進気鋭の牧師として、キリスト教界に頭角を現していくのだが、時を経るにしたがい通常のキリスト教の枠組みから大幅に外れていく。
それは大正3年の、ある夜の出来事にはじまる。
当時の彼は、東京の代官山に住んでいた。
毎夕、家族との散策を楽しむのを日課としていたのだが、

この年6月7日の夜のことー、
近所の風景は変わることなく、空には満月がこうこうと輝いていた。
ーいい月だなあ・・・。と空を見あげたときー、
・・・・・・・・。
とつぜん、空に雲が、かかった。
雲は満月の前に立ちはだかり奇怪にも十字を描いたのである。満月を背にして、十字架が描かれたのである。
「・・・・・・・・!」
一行は、唖然として立ちすくんだ。
この異様な光景は、15分ばかり続いたという。
このとき酒井に内在していた素質が目覚めた。
丸は日の丸、十字はキリストであった。
この瞬間、酒井は、日本民族とユダヤ民族に、秘められた関係があることを直感したという。
それ以来、彼は通常のクリスチャンの教義から加速度的に遠ざかっていく。
そして独自にキリスト教、すなわち、ユダヤ民族の研究に突き進んでいくのである。

昭和2年、ユダヤ研究の実績を買われ日本陸軍から、ユダヤ・シオニズム運動の調査のため中東・パレスチナに派遣される。このとき彼は、エジプトにも赴きピラミッドを研究した。
帰国後、彼はなにかに取り憑かれたように日本の超古代史の研究にのめり込んでいった。
そしてー、ピラミッドが日本で発祥した。
いわゆる、日本ピラミッド説を唱え始めたのである。
酒井が日本で初めてのピラミッドを発見するのはそれから数年後のことである。



葦嶽山の発見
昭和九年の春先、酒井の元にひとつの情報がもたらされる。
「広島、帝釈峡の近くに妙な山がある」昭和9年4月24日、一路、広島へ向かう。

広島からの案内は府中町専売出張所所長の堀準衛ー、
だが堀は、問題の山を特定するには至っていなかった。
こうして二人は、あちらこちらをたずね歩き、途中、一人が加わって目的地の比婆郡本村に到着したのは24日夕刻ー。

ここで地元の灰口繁雄という案内人を得て問題の葦嶽山(あしたけさん)に向かったのは夕刻午後6時、空に雨が降り出していた。
雨の中を、泥にまみれての登山になった。
一行は案内人を加えて4人、湧き水をすすりながら黙々と進んだ。前進、また前進の、虐待的な強行軍だったと酒井は記している。

一時間ばかりが経った。
春分のころの7時、しかも山の中、うっそうーと暗い。
「先生!あれっー」
ひとりが指す方を見ると、ほんの目の前にうっそりと巨石が立っていた。
「こっ、これは、ドルメン!」
たしかに、それはドルメン、三体のドルメンを発見したのだった。
つづいて、少し進んだところにあった!
幅一丈五尺(四・五メートル)、高さ一丈二尺(三・六メートル)ほどの、それは巨大な鏡石だった。
そしてその傍には、丈余の石柱(メンヒル)が立っていた。
夢中になって探索していたが、陽はまったく没して、あたりは夜陰に閉ざされ、しかも雨は、ますます激しくなった。
やむを得ず探索をうち切り、引き上げようということになった。
そして、帰途に入るべく振り返った瞬間だった。
ピカッ!と稲妻が走った。そのとき見た。
松林の向こうに、淡い墨絵のように鮮やかにそびえ立つ山があった。
思わず叫んだ。
「諸君!あの山が正にピラミッドである」
酒井はこのときの状況を、その著書「太古日本のピラミッド」の中で感慨深く述べている。

一ヶ月後、酒井は、ふたたび、葦嶽山を訪れる。 
中国新聞支局長や本村村長ら百人の観衆の見守る中で調査を敢行、その頂上から直径三メートルの太陽石を発見した。
酒井はこれを、複葉内宮(ふくよう ないぐう)式のピラミッドであると説明、その成立年代を二万三千年前と断定した。
この時点で、酒井のピラミッドに係わる知識はかなり詳細である。

ピラミッドの条件として、次の三点をあげる。
一つ、整然とした三角形の山である事。
   それは自然 ・人工を問わない。
二つ、頂上付近に球形の太陽石と、それを取り巻く環状の列石がある。
三つ、本体の本殿とは別に、遥拝するための拝殿がある。

この太陽石という言葉は、酒井によって初めて出現した言葉である。
エジプトのピラミッドにも、太陽石は存在しなかった。

 単葉外宮式 単葉内宮式


葦嶽山の頂上には、
この形の石の配置が
あった。
真ん中の太陽石を、
16の列石が二重に
囲んでいる








複葉外宮式 複葉内宮式

ところが、南米のクエンカで出土したピラミッドを描いた金板には頂上に丸いもの、つまり、酒井のいう太陽石が描かれていた。
また、フランスの考古学者、アンドレ・ポシャンの書物にこの太陽石が記されていた。
エジプトの大ピラミッドの頂上には、古代には球形の大石が置かれていた。
直径1.87メートルのこの太陽石は、冬至の太陽とぴったり重なっていたというのだ。

酒井がなぜ太陽石の存在を知っていたのか・・、これも謎のひとつとされている。


ピラミッドの定義からいうと、ドルメンやメンヒルのあった場所が、条件三の拝殿であり、頂上の太陽石が、条件二の環状列石である。
条件一は上の写真のごとくである。
酒井によれば、条件二の環状石の配列は左図のように四通りがあるといい、葦嶽山はこの内の複葉内宮式だと説明する。
この調査には、画家の鳥谷播山(とや ばんざん)も同行した。
彼はこの直後の6月、青森県新郷村において日本の二つ目のピラミッド「大石神」を発見する。

飛弾
酒井の葦嶽山ピラミッドの発見は全国の新聞に報じられ、広島県の山村の村が一躍脚光を浴び、続々と見物客が押し寄せることになる。
だが酒井はこの喧噪をあとに「飛弾」へと向かう。

ここで酒井は、三つ目のピラミッド「上野平」を発見する
昭和9年9月のことだった。
ここで酒井はひとりの同志を得る。
元陸軍砲兵大佐で当時は現役を退き生まれ故郷の郷土史を手がけていた上原清治である。
彼は、酒井の確信を持ったピラミッド説に感動し余生を神代文明の探求に捧げることになる。

上原の活動は精力的だった。
飛弾高山からその周辺の山々に調査を延ばし、正につぎつぎとピラミッドを発見していく。
高山を中心に、位山・船山・洞山(以上、宮村)・鍋山・松倉山(以上、高山市)・乗鞍岳(丹生川)など、上原の発見したピラミッドは数知れない。 
上原の調査報告が、逐一、酒井の元に届けられる。
上原の発見したピラミッドといわれる山を地図の上に並べていくとき、しだいに酒井は奇妙な感覚に捕らわれていく。 

ーこれは、計画的に並べられているのではないか? 
そして、上原が高山市の北方、丹生川村の日輪神社を報告したとき、酒井の直感が的中する。

飛騨のピラミッド
じつに飛弾一帯に点在する山々が、この日輪神社を中心に、十六方位に等分されたのである。
この十六方位に係わる記述が、竹内文献の中にあった。

 モーゼの裏十誡/太古日本のピラミッド
ピラミッドと十戒石の謎。
幻の秘書の復刻版 酒井勝軍¥3800/八幡書店
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