◆日本のピラミッド・・・とはー?
「日本のピラミッド」って何ー? 
ほとんどの人が首を傾げると思います。 学校では、そんなことは教わりません。
ピラミッドといえばエジプトですが、ここでいう「日本のピラミッド」とは、エジプトのそれと同じもの、という物ではありません。いえ、もしかすると同じ物かもしれませんが、そこまで研究が進んでいないというのが現状です。

「日本のピラミッド」の規定はー。

1−三角形の山である。
2−頂上、または、頂上付近に巨石が並んだ遺構がある。
(これを日本では、岩盤・岩鏡・岩座−いわくら−と呼んでいる)


そして、これらの山々には山頂に奇妙な巨石遺構が並んでいます。

メンヒル/広島葦嶽山

方位石/広島葦嶽山

富山/尖山
ピラミッド関連のホームページは、肯定派・否定派とも沢山あります。
ただ、これらの山々の巨石遺構が「ピラミッド」と呼ぶものかどうかは分かりませんが、実在していることは事実です。
そして、それをピラミッドと呼んだのが「竹内文献」であり、「酒井勝軍」です。

これらの巨石遺構と同様のものが兵庫県の生野山中にあったのです。
それが、日本の歴史にどう関係しているのか。
それを実際に残っている数々の巨石遺構や古代の伝承から探ってみようというのが、本サイトの趣旨です。


日本のピラミッドがマスコミに登場したのは、最近では、昭和59年ごろにサンデー毎日が特集を組んで全国のピラミッドといわれる山々を調査・紹介していったことがあります。
それ以後、一般にも知られるようになりましたが、この話は最近のことではないのです。

はじまりは、今からさかのぼる事70年ほど前・・・昭和9年に酒井勝軍(かつとき)という人が広島県でピラミッドを発見した、という新聞記事から始まります。

発見したピラミッドは、広島県庄原市の葦嶽山と呼ばれる山で、その中腹には上の写真のような巨石遺構が残っていたのです。
そして奇怪な事は、この山のことが「竹内文献」と呼ばれる古文献に記載されていた事から話は信憑性を帯びてきます。その古文献にはこう書かれていたのです。

つまりそれを、「日来神宮」と呼ぶ・・、なんと読むのか・・、そう、ヒラミット、つまり、ピラミッドと記されていたのです。。これが日本のピラミッド伝説の始まりです。

しかし、天皇絶体の国家体制だった当時の国家機関は、この古文献とピラミッド説を唱える酒井勝軍に対して弾圧を加え、文献の所有者・竹内巨磨は逮捕・文献は押収・・・、そして、奇怪な日本の古代史を記すこの古文献は昭和20年の東京大空襲に被災してすべて灰燼に帰すという、悲劇的な結末を迎えることになります。

時代が移り、昭和46年に八幡書店からその復刻版が出版されるまで、竹内文献の内容を知る人はごくわずかでした。
しかし、竹内文献の復刻版の出現で多くの古代史家の概要書が出版されるようになり、一般の人の目にも触れるようになりましたが、なにしろ話が奇異であり、本のタイトルも「日本にピラミッドが・・」と、一見して眉唾としか思えない事柄であり、一部の超古代史マニヤにしか受け入れられなかったのが実情です。

しかし、奇妙なことは、当初は眉唾・・嘘くそ・・出鱈目・・・・化けの皮をはがして・・と考えて調査を進めていくと、じつは様々な事実に突き当たっていくのがこの話の奇妙さなのです。

昭和59年にサンデー毎日の特集をしたジャーナリストが、布施泰和さんという方でしたが、この方、無論ジャーナリストであるからには夢見る○○ではありません。−が、それを起点に竹内文献を調査していった結果、「これは事実なのではないか」という結論に至り、「竹内文書」の謎を解く/封印された超古代史 を出版するに至っています。

さて、謎の日本のピラミッドは事実なのでしょうか・・・それとも、天蓋奇想の妄想なのでしょうか・・・
これを事実を起点にして解き明かしていく・・・これが本論の趣旨です。
簡単でしたが、日本のピラミッドの概略です。興味か起こりましたら本論へどうぞ。

◆日本最初のピラミッド・広島/葦嶽山
当時わたしは、ちょっと暇ができたので体力づくりに山登りをはじめました。
ーといっても、単に山に登って高いところから景色を眺めて喜ぶほどの山好きではなく、そこに何か自分の見たいものがある山に登ろうか・・・、結構実利主義・・なのです。

そこで最初選んだのが広島県の葦嶽山です。日本で最初に発見されたピラミッド山・・ということを知ったからです。
なにがあるんだろうか・・・、活字以外の予備知識はなく、広島県山間部の庄原市まで車を飛ばし、インターを降りたところで立て看板を見ておどろいた。 はい、その看板には「日本のピラミッド」・・・ちゃんと案内が入っているではありませんか。
県道を東方向に走っていくと、三叉路にはまた「ピラミッドコチラ」の看板・・・、「結構知られてんだぁ・・」

せまい山道に入って上り口までたどり着くと案内看板があり、そこには発見者の「酒井勝軍」が紹介されています。そうなのです。この山は庄原市の観光コースのひとつになっていたのです。⇒庄原市のHP
   
季節は冬の終わりー、
中国縦貫道を走っている頃はまさに雪でした。なんせ子供のころ以来、山なんて登ったことがない。
「登れるかしらー」とちょっと不安。
案内看板到着が午後3時ごろで、案内板には40分ぐらいの行程と出ており雪もやみ太陽が出ている。山道の景色をビデオに収めながら呑気に登って行きます。徐々に道は険しくなり巨石が現れてきて、あれもこれもとビデオを廻しました。
そのうち、なんとなく周りが暗くなってきたようなー、すると、さあっーと雪が降り始めるではありませんか。

「こりゃ、八甲田山になったかなー」
中国山脈のただ中だから降り方もすごい。
こちらは軽装、その辺りの喫茶店にでも行く気で足元は革靴履きだったのですー。ものの10分ほどの間に真っ白な雪景色に変わっていました。でも雪は止み太陽が顔を覗かせたようなので雪景色を撮影しながら登って行きますと、
「んー?」
カメラが動かない。
「なんでだー?」
早い話がバッテリーが切れてしまった。
当時のビデオのバッテリーなんて20分ぐらいしか持たなかった。(これは帰ってから知った)
こりゃ、せっかく頂上へ登っても撮影出来ない。
ーと云って今日は見るだけでまた登るなんてことは足に自信がない。
「今日は泊まりビデオを充電して明日登ろう」と決めて、その日は途中で下山したのです。
庄原市のホテルに入ってまず買ったのが運動靴。充電を済ませて、翌朝、ふたたび葦獄山に向かったのです。
new
この山にあったのが、奇奇怪怪な巨石の群れ・・・、です。たしかに・・・不可思議・・・。
ー世の中にはとんでもないものがある。
その日はカラリと晴れていましたが山頂は寒い。カメラを回す手がかじかんで寒くて鼻水は出る。
しかし、何度も何度も見直してやっているうち、ビデオのバッテリーは頂上へ着くまでにまた失くなってしまったのです。(HPでは結構この山のことが紹介されています)

これが病み付きのはじまりです。
関係本に寄れば・・・、ピラミッドは飛騨であり富山であり東北だという・・・、
「・・・行って見るか」
こうして始まった巨石見学は、飛騨の高屋山、位山、富山の尖山、長野の皆神山、そして果ては東北地方まで出向き、黒又山、五葉山まで進んいきました。

そして実は、こう云った巨石遺構を記した文献が日本に存在したのです。
new