稲荷神社は
イエス・キリストを祀る!?

稲荷=I.N.R.I.
=イエス
「稲荷神社」とは何か。
稲荷神を祀る神社を稲荷神社と呼び、京都市伏見区にある伏見稲荷大社が日本各所の神道上の稲荷神社の総本社とされている。

定説ではー、
稲荷神とは、宇迦之御魂神(うかのみたま、倉稲魂命とも書く)などの穀物の神の総称で、宇迦之御魂神の他、豊宇気毘売命(とようけびめ)、保食神(うけもち)、大宣都比売神(おおげつひめ)、若宇迦売神(わかうかめ)、御饌津神(みけつ)などとされている。
神仏習合思想においては、仏教における荼枳尼天(ダキニテン)が宇迦之御魂神の本地仏とされ、その総本社は豊川稲荷である。
稲荷神社は全国で二万社とも三万社とも言われ、屋敷神としてビルの屋上や工場の敷地内などに祀られているものまで含めると、稲荷神を祀る社は無数と言って良い。
本来は穀物・農業の神だが、現在は産業全般の神として信仰されている。
伏見稲荷大社について、『日本書紀』では次のように書かれている。
稲荷大神は、欽明天皇が即位(五三九年、または、五三一年)される前のまだ幼少のある日、「秦(はた)の大津父(おおつち)という者を登用すれば、大人になった時にかならずや、天下をうまく治めることができる」と言う夢を見て、早速方々へ使者を遣わして探し求めたことにより、和銅四年(七一一年)二月初午の日に秦(はたの)伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))が鎮座した。
和銅四年(七一一年)、稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして御神威赫々たる大神を鼎立した。
深草の秦氏族は系譜の上で見る限り、太秦の秦氏族、すなわち、松尾大社を祀った秦都理《はたのとり》の弟が、稲荷社を祀った秦伊呂巨(具)となっており、いわば、分家と考えられていた。
 
●稲荷は「伊奈利」
稲荷の説明などで、
「・・・穀物・農業の神とされるが、自然の生育に任せ収穫した稲を荷のように架けて乾燥させるまでに生長し、その後は人手で処理できるまでに至ったことの感謝を表しているとも考えられる。」などとそれらしく説明しているが、これは「稲荷」という漢字を説明しているのであり、稲荷神の説明ではない。
「稲荷」の最初は「伊奈利」と書かれていた。
「稲荷」の漢字を用いたのは空海だと云われている。つまり、イナリと穀物・農業とは全く関係がないのだ。

●イナリと狐
狐は古来より日本人にとって神聖視されてきた。
日本書紀に日本武尊命を助ける白狐が登場している。
宇迦之御魂神は、別名「御饌津神」(みけつのかみ)と言う。
狐の古名を「けつ」と言い、御饌津神を「三狐神」と解して、狐は稲荷神の使い、あるいは、眷属に収まった。 
時代が下り、稲荷狐は命婦の格(朝廷の屋敷の出入りが可能となる格)を受け、命婦神あるいは白狐神として上下社に祀られるようになった。 
江戸時代に入り、稲荷が商売の神と公認されて大衆の人気を集め、稲荷狐が稲荷神という「誤解」が一般に広がった。 
この頃から稲荷神社の数が急激に増え、流行神(はやりがみ)と呼ばれる時もあった。 
また、仏教系の神である荼枳尼天は、金狐・銀狐(きんこ・ぎんこ)という眷属を持ち、稲荷神と同一視される原因となったが、正確には稲荷神社に祀られている狐の多くは白狐(びゃっこ)である。
稲荷神社の前には狛犬の代わりに宝玉をくわえた狐の像が置かれる例が多い。
他の祭神と異なり、稲荷神には、神酒・赤飯の他に狐の好物とされる油揚げが供えられ、ここから油揚げを使った料理を稲荷と称するようになった。
イナリと狐、これもまったく関係がない。
以上が一般的な稲荷神社の定説だが、稲荷には奇怪ないわくが付いている。
謎の羊太夫伝説
古碑から現れた古代の十字架?
多胡碑
これは、雑誌「ムー」二〇〇一年六月号(学研)からの抜粋記事です。
群馬県吉井町に「多胡碑(たごひ)」という西暦七一一年建立の古碑がある。
この古碑について、江戸時代の大名であり学者だった松浦静山がその著書「甲子(かっし)夜話」でこう触れている。

ーある人が云う。 
上州(群馬県)多胡郡の碑にある羊(ひつじ・・人名)は、遣唐の人だろう。 
後にその墓から十字架が発見された。
そこで、代官が長崎屋の旅舎でオランダ商人のイサク・ティツィングに見せたところ、彼は『こんなものを鑑定しろとは一体どういう事でしょうか』と不思議がった。 
それは、ご禁制のキリスト教の品だったのである。
日本三古碑のひとつの「多胡碑(たごひ)」から、当時ご禁制のキリストに係わる十字架が発見されたというのだ。
だが、キリストの伝来は一五四九年で、「多胡碑」の建立は七一一年、その差七五〇年の昔なのである。
この古碑に刻まれた「羊(ひつじ)」なる人物は、一体、何者なのか。
この碑には次のように文字が刻まれている。
「朝廷は、上野の国の三郡から三〇〇戸を割いて一郡を新設し、羊という人物に給して多胡郡と命名した。 和銅四年三月九日のことで、この命令を扱ったのは弁官(べんかん)の多治比真人・・・・」


羊太夫の伝説が地元に伝わっている。
ー奈良時代に新設された多胡郡を賜った羊太夫は、八束小脛という神童の引く天馬に乗って奈良の朝廷へ日参していた。
ある日、羊太夫は昼寝をしている小脛の両脇に一本づつ生えている白羽を抜いてしまった。  
すると、 神通力を失った天馬が走らなくなり朝廷へ日参できなくなった。
朝廷は羊太夫が謀反を図っているとして討伐したという。


伝説からは羊太夫の人物像は見えてこないが、この伝説には続きがある。
八束城を追われた羊太夫の一族が落ち合った場所が「落合」という地名になり、羊太夫の女房ら七人がここで自害した。
それぞれを輿に乗せて葬った山が「七輿山」になったという。
ところが、この七輿山が六世紀ごろの前方後円墳だった。 
全長一四五メートル高さは前方部・後円部ともに十六メートルで、六世紀代の古墳としては東日本最大級といい、横穴式石室と推定されている。
出土遺物は、円筒・朝顔型円筒・人物・馬・盾などの埴輪類や須恵器・土師器があるが、十字架は発見されていない。
羊太夫は秦一族
羊太夫伝説
この羊太夫を祀る神社が名古屋にある。羊神社という。

創建の由来は、多胡郡の多胡一族が上里見村真野(多胡神社鎮座)に落ちのび、 その後、 延宝年間に下秋間字日向(堂宇鎮座)と、当地へと移住するとともに多胡新田を開発し、祖神とする多胡羊太夫藤原宗勝公をまつり、享和二年(一八〇二)正式に多胡羊霊をまつった。 

また、縁記に『多胡羊太夫由来記』などが伝えられ、羊太夫は秩父で和銅を発見し、その功によって多胡郡を賜り、記念に「多胡碑」を建てたとされ、境内にその碑文の「多胡宮羊太夫宗勝神像位」碑がある。

これらの様々の事象は、羊太夫が実在の人物だったことを証明している。
中世、多胡郡を支配した豪族「小幡一族」が、自らの祖先は羊太夫であると公言していたという。
羊太夫は優れた養蚕技術を持っていたと云い、その他、冶金術・製鉄技術も駆使して農機具をつくったともいう。 

七〇七年、埼玉県の秩父で銅が発見された。
朝廷は秩父に、銅銭「和銅開珎(かいちん)」鋳造のための工場を作らせた。
この仕事に従事したのが羊一族であり、技術長官が羊太夫だった。
秩父鋳造の銅は平城京の建設にも使われ、これらの功績が認められて多胡郡の領主になったのである。羊太夫もまた秦氏だったのだ。

こうなると、松浦静山が書き記した十字架についても推測ができる。
羊太夫が秦氏一族なら、彼の祖先は大陸から来たキリスト教徒なのである。
平安時代の書物には、十字架をさして「はたもの」と表現している。 
昔の日本には十字架という言葉がなく、これに「機物(はたもの)」、あるいは「磔(はたもの)」の文字を充てたという。
元来は「秦の物」という意味だったのではないかー。
秦氏は自らのシンボルとして十字架を使っていたという。

松浦静山も、十字架が古代日本の景教徒、もしくは、秦氏のものだろうと推測している。
景教とは、ローマ帝国から異端とされたネストリウス派キリスト教で、シリアから中国へ伝わり景教と呼ばれた。
「続日本紀」に景教徒の皇甫(こうほ)や、李密医(りみつい)の来日が記されている。景教の伝来は七三六年である。 
しかし、多胡碑の建立は七一一年であり、景教伝来の方が遅い。
稲荷は、I.N.R.I.
話はつづく。 
松浦静山の「甲子(かっし)夜話続編」には、つづきがあった。 

この「多胡碑」の近くから、驚くべき遺物の出土が記録されていたのだ。 
ー上野国の羊太夫の碑の傍らから石槨(せっかく)を掘り出した。
その中から古銅券が出た。 
その表題の文字はこのようである。

「JNRI」というアルファベットを記していたのだ。

この「JNRI」とは、「Jesus Nazarenus Rex Iudaeorum」の頭文字、それはすなわち
「ナザレのイエス・ユダヤの王」という意味である。

ヨハネ福音書第十九章十八〜二〇節ー、
「彼らはイエスを十字架に付けた。
ビラトは罪状書を書いて十字架の上に掛けた。
それには、『ナザレのイエス、ユダヤの王』と書いてあった。

・・・・それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていた」
アルファベットでは「JNRI」だが、ラテン語で書くと「INRI」とも書く。
また、ローマ字の装飾文字は「I」と「J」は似かよっている。

七一一年に建立された古碑から出てきた十字架と「JNRI」の古銅券、この奇妙な遺物は残存していない。明治の神社令期に、憲兵によって持ち去られたのではないかと云う。
INRIはイエス・キリスト
これが、後世のザビエルのキリスト教に関係するものでないことは明白である。

古代のキリスト教徒たちは、「JNRI」、あるいは、「INRI」を知っていた。 

羊太夫の石碑から出てきたと云うことは、これ一つだけということもなかっただろう。
秦氏たち一族の間では、誰もが眼にしたものではなかったか。 
そしてこれを、どう読んだか。
「INRI」を「イナリ」と読んだのではないか。これが「イナリ」の語源ではないか。

稲荷神社の象徴は、朱い鳥居とキツネの狛犬である。
しかし本来、稲荷とキツネは全く関係がない。 
後世、神仏習合の時代に、仏教系の稲荷信仰ーダキニ信仰(荼枳尼天ーダキニテン)が、集合してキツネが置かれるようになった。
「稲荷」と書くのも空海の当て字である。稲荷は本来「伊奈利」と書いた。
これは万葉仮名である。現在の日本人が外来語をカタカナで書くように、昔は万葉仮名を当てた。

「イナリ」は古代の外来語だった。そして本来は「インリ」だった。
イナリ神社はインリ神社であり、それはすなわち、ナザレのイエス神社だったのだ。

=不思議の古代史冊子より=


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不思議の古代史