不思議の古代史/上古編

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●アテン一神教はカルト宗教か?



アマルナの発掘

二十一世紀になり、アマルナ周辺の砂漠の調査が実現し、四カ所の墓地が確認された。
最も大きな墓地で十年近く調査が続いているが、これまでに四三二体分の人骨が発見された。うち、死亡年齢が判明した遺体の七割が三十五歳までに死んでいたという。
また、最近の情報では、遺骨の九〇%が七歳から二十五歳の若年層で、十五歳から二十五歳の骨格には、その多くに何らかの損傷が残っているというのだ。特に多いのが脊椎骨折で、かなりの重労働をさせられていたのではないかと推定される。墓穴には複数の人骨が乱雑に横たわり、死者を投げこんだような埋葬である。

アマルナに都があったのは、僅か十七年間だった。
アケトアテン(=テル・エル・アマルナ)が造られたナイル川東岸には何もなく、アテン神信仰のための新首都として建設された。
その建設は、アクエンアテンの治世五年目ごろ(紀元前一三四六年)に始まり、九年目(紀元前一三四一年)に完成したが、その二年前から首都として使われ始めた。つまり、十年ほどの期間で急ぎ完成さした都市だが、その規模は、ナイル川東岸に沿って約十三キロの領域に跨っていた。
建設を早めるため、泥レンガを多用して表面を磨いた建物がほとんどで、重要な建物では表面を地元産の石で覆っていたという。

アテン信仰はカルト宗教か?

これらの記録から推測されることはー、
働ける年齢の子供たちをかき集めて死ぬまで重労働をさせ、死んだら墓穴に放り込んでいたのではないかー、という恐るべき実態である。
アテン信仰とは、あるいは、アクエンアテンを頂点としたカルト宗教集団だったのではないかー。
アマルナ時代は、芸術的には優れたものを多く生み出した時代だと云う。
だが、後世でも、芸術に理解のある独裁者は、ドイツのヒトラーやローマ皇帝などがあり、宗教に溺れて都を死体で埋めた皇帝や王も世界史には沢山いる。アクエンアテンは、その皮切りとなった人物だったのかー。
アクエンアテンの死後、アマルナの都は早々に放棄され、元のアメン神信仰が復活した。
これは、アクエンアテンの改革の失敗とされてきたが事実はそうではなく、忌まわしい都の放棄だったのだろうかー。

汚れた人々=アテン教徒

このアマルナ革命について、古代エジプトの神官マネトの「エジプト誌」には、アメン神官団から見た立場で、次のように記している。
※セベンニトスのマネトとは古代エジプトの書記で、下エジプトのヘリオポリスの神官でもある。「エジプト誌」は、彼が紀元前二八〇~二五〇年頃に書いた歴史書である。


⇒⇒マネトが記した出エジプト

後のユダヤ教

聖書のモーゼは、エジプトから出た後に、神から十戒を得たことになっている。
マネトのエジプト誌が記したオサルシフ=モーゼなら、モーゼはアテン一神教を持って行った訳ではなく、途中で内容が変わったモーゼの一神教をユダヤ人に伝えたことになる。

アクエンアテンの死後、アマルナには十年ほどは人々が住んでいたらしく、ホルエムヘブに捧げられた神殿が見つかっていることから、少なくとも、ホルエムヘブ王の治世初期にも住民がいたらしい。その後は、ローマ人がナイル川に沿って入ってくるまで放棄されていたという。
対岸は、都市に食料を供給するための耕作地とされた。都市全体を十四個の境界碑で囲んでおり、建設当時の都市の範囲がはっきりしている。構成の配置がそのまま保存されている珍しい都市遺跡だという。

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◇エジプト王名の謎

◇アメン王朝と天皇系譜



◇マネトが記した出エジプト

◇アテン一神教はカルト宗教か


★テル・エル(神の丘)の都市

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