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第一編 日本ピラミッド伝記
その二、広島・葦嶽山

  • 八幡山の巨石遺構を、考古学のえらい先生に見て貰っても埒があかないし、まともな説明も聴けない。
    縄文時代の何かだろうと云うのが関の山ー。
    事実、酒井勝軍が発見した広島県の葦嶽山を見て、高名な歴史学者が「縄文時代の何かだろう」と云ったと、現地の看板に書いてある。
    この先生……、何のために見に来たのー?
    彼らは山上の古代遺跡には見て見ぬふりをして触れない。
    なぜかー。アカデミーがこういう遺跡の存在を否定しているからである。
    なぜかー。文献に記されていないから…、である。
    文献に記されていないものは存在しない…、これがアカデミーの立場なのだ。
    たしかにこういった巨石遺構は、古事記や日本書紀(記紀)には出ていないし、それ以降の文献にも記されてい
    ない。ところが実際には、多くの巨石遺構が日本各地の山々に大昔から存在している。これ自体が奇妙…。現
    実に存在する巨石遺構が、なぜ文献に記されなかったのかー。それを問題にすべきだったのではないかー。
    ー本当の所は、文献に記されているが解釈できなかったー、これが本当の事実らしい。
  • 神代文字
    日本には、漢字以前には文字がなかったー。江戸時代の本居宣長以来、これが定説になって、アカデミーはこの立場を取っている。
    ところが、これが全くのウソ話らしいー。
    伊勢神宮には古事記を編纂した太安万呂と稗田阿礼の奉納文が神代文字で残されているといい、新しいものでは、源頼朝の奉納文が残っていて、やはり神代の文字だという。
    神代文字とは、漢字以前の存在しないとされている日本の古代文字である。神社でお札をもらうと、ミミズの這ったような奇妙な文字が書かれていることがある。
    あれが神代文字である。

    そして現在、神代文字は、事実、存在したことが確認されている。石に刻まれた神代文字の石碑文が日本だけでなく、世界の各地で発見され、神代文字として読み解くと日本語として読めると言うのだ。
    神代文字の存在は、漢字以前の日本の古代歴史に係わる。
    山上の巨石遺構も漢字以前の存在であり、日本の古代歴史に係わる。日本の古代歴史に係わるものが、これまで存在しないと言い切って隠し続けられてきたらしい。
    そして、これに触れたものはこれまで社会的に葬られてきた。
    なぜなのかー。

    日本の持つ古代歴史の中に何かがあるのではないかー。
    巨石遺構についての記述が文献にないと云ったが、じつはひとつある。
    そこには日本のピラミッドについて記されているだけでなく、記紀とは異なった神武天皇以前の古代歴史が記されていたのだ。
    しかしその文献は、時の政府から弾圧を受け、偽書として葬られているのだ。
    その文献を「竹内文献」という。

    日本のピラミッドそのものが正史とされる文献にない以上、正史だけを相手にしていても永久に謎は解けない。
    そして、存在しないと言い続けてきたアカデミーの話がウソ話なら、アカデミーが否定するものにこそ、事実がある可能性が高い。
    昭和の初め、日本ピラミッド説を唱えた人物がいる。そのピラミッド説を支えたものが竹内文献だった。
    日本のピラミッドを見ていく上で日本ピラミッド説と竹内文献は避けて通れないのだ。

    日本のピラミッドとはー?
    日本にピラミッドと言われる山が多数存在するが、それは、竹内文献に記された山を指して云う。
    竹内文献には、記紀の記す神武天皇以前に、不合朝七十二代ー、それ以前に、上古二十五代四四三世を記し、それ以前の天神代を記している。
    ピラミッド山は、これらの超古代の天皇(すめらみこと)が葬られた陵墓であるとしている。

    日本ピラミッドを提唱したのは、明治生まれの酒井勝軍である。
    しかし酒井は、竹内文献から日本のピラミッドに至った訳ではない。
    彼は、独自の調査研究から日本にピラミッドが存在に思い当たった。
    その原典が何処にあったのか、酒井は明らかにしていない。
    竹内文献以外に、日本のピラミッドを示唆した何かが存在したらしいのである。
    酒井勝軍とは何者だったのか、酒井の足跡を追いつつ、日本のピラミッドと云われる山々をご案内していこう。


  • 太古ピラミッド説
    ー日本に太古のピラミッドが存在する。
    日本ピラミッド説を唱えたのは昭和初期の酒井勝軍(かつとき)である
    そして彼は、さらに進めた日本ピラミッド発祥説を唱えた。ピラミッドが太古の日本で発祥し、外国のピラミッドは、それが伝播したものであると云うのだ。だが、歴史の上には歴史が積み重なり、人類の歴史には幾重もの長い歴史が重なっている。酒井の日本発祥説はも早、立証することは不可能だろう。
    しかし、日本ピラミッドの存在が、今後、多くの人たちの研究によって明らかになることは間違いない。おそらく、日本人よりも先に、外国人が立証していくのではないかと思われる。いったんメクラになったものは、中々、元にもどれない。
    しかし、昭和五年という年代のピラミッド説はあまりにも突飛で唐突だった。多くの日本人が信じられなかったのも無理はない。今ほどの情報量もなく、ピラミッドの存在さえ知らない者も多かった時代だっただろう。

    酒井勝軍
    酒井勝軍は、一八七四年(明治七年)に山形県南村山郡上山町(現・上山市)で生まれた。幼名を山下勇吉、後に酒井姓を継ぐがそれほど裕福ではなかったらしく、英学校を退学し、のちに東北学院を苦学して卒業している。
    酒井が、キリスト教の洗礼を受けたのは一八八八年(明治二十一年)、当時の日本では、キリスト教徒は先鋭的な存在だった。
  • 一八九八年(明治三十一年)に渡米、シカゴ音楽大学・ムーディ聖書学院に学んだ。
    帰国後、彼は東京唱歌学校を設立し、新進気鋭の牧師として頭角をあらわしていく。
    当初は親米主義・民主共和主義・反戦平和主義的だった酒井だが、次第にキリスト教の枠組みからはずれていく。
    そして、一九一四年(大正三年)六月七日、代官山の夜空に、日の丸と十字架が重なる幻影をみた。
    ー古代の日本とユダヤに秘められた関係があるのではないか。
    酒井の直感はこれだった。 日露戦争やシベリア出兵への従軍を経て、酒井は反ユダヤ主義の存在を知った。酒井は『猶太(ユダヤ)人の世界征略運動』・『猶太民族の大陰謀』・『世界の正体と猶太人』などといった一連の著作を発表、反ユダヤ主義の存在を紹介する。
    しかし、酒井の主張は単純な反ユダヤ主義ではなく、のちにロシアやナチス・ドイツにユダヤ人虐殺の口実を与えた史上最悪の偽書と云われる『シオン賢者の議定書』も、酒井によれば、ユダヤ人とフリーメーソンの暗躍が、最終的に「神選の君主」たる皇室の栄光につながるという証拠文書となり、シオニズムも日本回帰運動として解釈されていく。
    酒井は次第に、反ユダヤから親ユダヤへと変貌していった。

    一九二七年(昭和二年)、酒井は日本陸軍からユダヤ研究のためパレスチナに派遣された。このとき酒井は、エジプトでピラミッドも研究した。帰国後の酒井は日本の超古代史の研究に没頭するようになったと云う。

  • 竹内文献との邂逅
    そして一八二九年(昭和四年)、酒井は皇祖皇太神宮の竹内巨麿の竹内文書に出会った。竹内文献は、茨城に造られた竹内巨磨の皇祖皇大神宮で、この前年(昭和三年)から公開されていた。
    このとき酒井は、奇妙なことに、聖書の中のモーゼの十戒石を日本で探していたと言うのだ。
    この十戒石が竹内文献の御神宝の中から発見されたと言う。
    つまり酒井は、竹内文献に出会う以前から、古代日本と古代ユダヤの深い係わりに気づいていたことになる。
    この知識をどこから得たのか、彼はそれを明らかにしていない。
    明治以降、たしかに日本では日ユ同祖論が流行っていた。
    しかし、日ユ同祖論でも、十戒石の存在やピラミッドの存在などといった奇抜な論にはなっていない。
    前年までのパレスチナ・エジプト調査のいずれかで得た知識だったのではないかと推測されるのみである。
    一九三〇年(昭和五年)『神代秘史百話』を出版し、日本に太古のピラミッドが存在すると宣言した。
    酒井が日本ピラミッドを発見するのは、こののち、四年後のことー。その間、酒井たちの周囲に猛烈な激風が吹き始める。
    この年ー、昭和五年十二月、ときの内務省が突如、竹内文献の弾圧を始めたのである。

    竹内文献の弾圧
    ー天皇不敬。これが竹内文献への弾圧の理由だった。現在の憲法ではない。
    帝国日本の明治憲法は酒井らの自由な活動を許さなかった。ーが後世、このとき大々的に竹内文献をスクープした東京日日新聞(現在の毎日新聞)の記事掲載には、何者らかの意図があったのではないかと疑われている。
    内務省の弾圧はその後もつづき、昭和十一年、竹内文献の所有者竹内巨磨の逮捕にいたり、膨大な竹内文献は押収されてしまうことになる。
    太平洋戦争の只中で始まった竹内裁判は終戦の前年に決着し、竹内巨磨は無罪とされる。
    しかし、裁判所は押収した文書・機器類を返還しなかった。
    そして、昭和二〇年三月十日を迎え、東京大空襲の火炎の中で膨大な竹内文献は灰燼に帰してしまった。

    竹内文献が、その後、一般に陽の目を見るのは終戦から十六年を過ぎた昭和四十六年、東京・八幡書店からの竹内文献復刻版の発刊以後からのことである。
    酒井のピラミッド発見から八十有余年になる。当時二〇歳だった若者でも一〇〇歳を越えた。
    酒井勝軍も竹内巨磨も逝ってしまった。昭和初期のピラミッド説の体験者はひとりもいなくなった。
    ピラミッド山だけが、その当時と変わることなく、悠然と聳(そび)えつづけている。
    ここから、酒井勝軍や竹内巨磨の足跡を追い、彼らが追ったピラミッド山に踏み入ろう。
  • 広島・葦嶽山
    ピラミッド説の酒井が最初に発見した山が広島県の葦嶽山である。
    葦嶽山は、八幡山の十六方位線上には該当しない。
    ところが、八幡山の南方線上に高御位(たかみくら)山があり、葦嶽山は高御位山の東西
    線上にぴったりと乗っているのだ。高御位山は、標高三〇四メートル、兵庫県加古川市と高砂市の市境に位置する山で、頂上に岩場を磐座とした高御位神社がある。
    高御位の名も神座・磐座から転じたらしい。祭神は大己貴(おおなむち)命と少彦名(すくなひこな)命で、神社由緒では、欽明天皇十年(五四九年)の創建という。
    日本のピラミッド山の筆頭は、なんと云っても酒井勝軍が発見した広島県の葦嶽山だろう。
    広島県北部の庄原市東部本村町にある標高八一五メートルの山である。

    中腹部から山頂付近にかけて人工的に積み上げたようにも見える岩の形跡などのあることから、日本ピラミッドとして知られ、古くは神武天皇陵と伝えられていた。
    中国縦貫道・庄原インターを降りて南進、三叉路を東の帝釈峡方面へとると、途中の道路端に日本ピラミッドの看板がある。
    登山ルートは二つ、南から登るのが灰原ルートで登山道はきれいに整備され、そのまま、葦嶽山頂上へ至るルートである。
    北側からの野谷コースが昔からの登山道だったらしく、渓流に沿って谷筋を登っていく。
    途中から山の斜面に巨石がポツポツと顔をのぞかせる。谷筋が行き当たるあたりに、ドンドンと巨石が横たわる。
    そこからの登りは急勾配だが、距離は短い。
    登りきった所が葦嶽山と鬼叫山との鞍部で、休息所が設けられている。
    北側の鬼叫山に巨石群があり、南が葦嶽山本峰である。
    葦嶽山の頂上には、この山をピラミッドと断定し、一躍、有名山にした酒井勝軍(かつとき)を記す看板が建っている。
  • ピラミッド発見
    「広島県の帝釈峡の近くに妙な山がある」という情報が、酒井にもたらされたのは昭和九年の春先だった。四月二十四日、勇躍して東京を出立、一路、広島へ向かった。
    広島からの案内は、府中町専売出張所所長の堀準衛が立った。だが堀は、問題の山を特定するには至っていなかった。
    二人はあちらこちらをたずね歩き、途中、一人が加わって目的地の比婆郡本村に到着したのは、二十四日の夕刻になっていた。

    ここで地元の灰口繁雄という案内人を得て、問題の葦嶽山に向かったのは夕刻の午後六時、折悪しく、空に雨が降り出していた。雨の中を泥にまみれての登山になった。
    案内人を加えて一行四人、湧き水をすすりながら、黙々と進んだ。
    前進また前進の虐待的な強行軍だったと酒井は記している。
    一時間ばかりが経った。春分のころの午後七時、しかも山の中でうっそうと暗い。
    「先生!あれはー!」
    ひとりが指す方を見ると、ほんの目の前にうっそりと巨石が立っていた。たしかにそれはドルメンだった。
    続いて少し進んだ所に、幅一丈五尺(四・五メートル)、高さ一丈二尺(三・六メートル)ほどの巨大な平たい巨石が立っていた。
    それが鏡石で、その下には丈余の石柱(メンヒル)が立っていた。夢中になって探索していたが、陽はまったく没してあたりは夜陰に閉ざされ、しかも雨はますます激しくなった。
    やむを得ず探索をうち切り、引き上げようということになった。

    そして、帰途に入るべく振り返ったとき、ピカッ!と、稲妻が走った。
    そのとき見た。松林の向こうに淡い墨絵のように、鮮やかにそびえ立つ山があった。思わず叫んだ。
    「諸君!あの山が正にピラミッドである」
    その著書「太古日本のピラミッド」の中で、酒井はこのように感慨深く述べている。
    一ヶ月後、酒井は、ふたたび、葦嶽山を訪れ、中国新聞支局長や本村の村長ら百人の観衆の見守る中で調査を敢行、葦嶽山の頂上から直径三メートルの太陽石を発見、酒井はこれを複葉内宮(ふくよう ないぐう)式のピラミッドであると説明、その成立年代を二万三千年前と断定した。
    広島で古代のピラミッド発見のニュースは新聞に掲載され、全国から見物人が殺到して、一時は葦嶽山の登山道には茶店まで出来たともいう。
    酒井のピラミッド説は、このまま進展していくかに見えた。
    ところが、奇妙なところから横槍が入ったのである。時の内務省が、酒井のピラミッド理論が「天皇不敬罪」に当たるとして弾圧を始めたのである。
    現在の日本ではない。時は昭和の初め、明治以来の帝国憲法の元だった。
    酒井の周辺には官憲の眼が張りつき、それは二年後の竹内文献・竹内巨磨の逮捕へと進んでいく。

    破壊された太陽石
    酒井がこのとき発見した太陽石は、現在は残っていない。これから数年後の十二~三年ごろ、何者かによって破壊され、谷底に投げ落とされたらしいと伝えられている。
    昭和五十九年ごろ、サンデー毎日が日本のピラミッド特集をぶち上げ、葦嶽山にも調査に入った。
    そのときの検証では、頂上の土の下に埋められている可能性があるというのだ。あるいは、官憲の破壊を惧れた当時の地元民によって、秘密裏に埋め戻されたものだったのかもしれない。
    現在の葦嶽山頂上には、太陽石の周囲にあった環状石が残っているのみである。

    弥広殿造天皇
    酒井の二万三千年前という年代の根拠は、竹内文献の記載によるものである。
    竹内文献に伝わった「御神宝」の中の御神体石に神代文字で彫り込まれていた記述が、『日来神宮』だった。
    この『日来神宮』を、吉備津根本国(きびつね・もとつくにー備前・備後の国)に造ったと記していたのだが、葦嶽山のある広島県はたしかに備後の国だった。
    霊廟の主の大綱手彦天皇(おつなてひこすめらみこと)の年代は、竹内文献の不合朝十二代天皇、弥広殿造(ヤヒロドノツクリ)天皇で、それが二万三千年前と記されていたのである。

    葦嶽山の方位石
    葦嶽山の方位石は高さ二メートル、ひとつの巨石を四つに断ち割ったもので四方位になっている。ところが、この方位石は東西南北を指しているのではない。約三〇度の誤差があるのだ。
    酒井勝軍は、この誤差については正確な解答を出していない。この方位石が置かれた時代の東西南北が現在の東西南北と三〇度の違いがあったのかどうかー。
    しかし、一九八四年(昭和五十九年)からのサンデー毎日の調査では、ひとつの回答が出ている。
    京都芸術短大の渡辺豊和教授は、方位石の約三〇度の誤差を、冬至線・夏至線を指し指したものではないかと指摘した。
    冬至・夏至は一年のうち、一日がもっとも短い日と長い日のことだが、冬至の太陽はもっとも南に下がり、南緯二十三度二十六分の南緯線を通り、夏至の太陽はもっとも北に上がって、南緯二十三度二十七分の北緯線を通る。
    このラインは、南回帰線(みなみかいきせん)・北回帰線(きたかいきせん)とも呼ばれる。
    葦嶽山の方位石は、この時の、それぞれの日の出点と日没点を指したものではないかと指摘した。
    方位石背後の獅子岩と呼ばれる石が、やはり、三〇度の誤差で南西の空を指しているところからも、この指摘が正しいものではないかと云われる。
    ただ、古代の南北線が現在と比べて異なっていたらしいことは、他の巨石遺跡からも現われてくる。
    しかし、三〇度という大きな誤差が見られるのは葦嶽山の方位石だけであり、渡辺教授の指摘は正解ではないかと思われる。

    鏡石
    いまひとつの謎が、幅七メートルの鏡石である。鏡石は南北に対して四十五度かたむき、東南方向を向いている。
    同じサンデー毎日の調査で、鏡石の南に立っているメンヒルの頭に丸い穴が開いているところから、この穴に光る玉がはめ込まれていて、玉に当たる光を鏡石で屈折させたものではないかという話があるが、これはどうもいただけない。
    巨大な石とガラス細工を連想させる玉の話は結びつかないし、また、メンヒルと鏡石は、他の山ではセットで建っていない。
    他の山の鏡石・メンヒルと比べての共通性を求めなければ推論とは云えない。
    この孔は、祭祀のときのポールを立てるためのものだったのではないか。

    福島県飯山町の船石や姫路市たつの市の笹山巨石に同じ形状の穴が見られる。
    飯山町の船石は、中央に長四角の穴がありこれは舟の中心の帆柱を立てるための穴であり、石の両サイドに葦嶽山のメンヒルの穴と同じ程度の穴がある。両サイドには細いポールを立てて、三者をつないで旗を立てたものと思える。(日本のピラミッド山・千貫森山を参照)
    たつの市の笹山巨石では鬼の足跡と名づけられた巨石である。調べてみると、これはこの部分を頂上として下へ数メートルに渡って積み上げられた巨石の山だった。
    これも祭祀を行うときに、ここにポールを立てて旗を揚げたもので、年月の経過でその跡が奇妙に変形したものである。(兵庫の磐坐山・笹山を参照)
    葦嶽山の場合も、神社での祭祀と同様にこの山で祭祀が行われたものだろう。


  • 京見山の鏡岩
    これと同様に、四十五度傾斜した鏡石が兵庫県にも存在している。
    姫路市勝原区・京見山の七つ岩である。(兵庫の磐坐山・京見山を参照)
    京見山の七つ岩は、巨大な鏡台を思わせる鏡岩だが、やはり、東南方向を向いている。
    その上、京見山の鏡石は、四十五度の上空を向いているのだ。空を向いている点から、天文に係わるものと推察されるがー、では、東南にどのような意味があるのか…。
    鏡石は、飛騨の位山・青森の大石神にも存在し、現地では立て札で案内されているが、何分に古すぎる石で形が崩れ落ち、ここのような詳細は確認できない。
    鏡石が東南方位と関係するのかどうか、いま、いくつかの鏡石と比べてみなければ何とも云えない。

    中国地方の巨石
    葦嶽山の周辺には、まだまだ巨石の存在する山があると思われる。
    葦嶽山の頂上から東方の山を撮影したとき、山の上方に巨石が映りこんだ。
    ネットの不思議の古代史サイトを開いて間もないころ、山口県の方から中国地方の山腹にある巨石写真を提供された。公開を禁じられているので紹介するわけには行かないが、それらの中には、ひとつの巨石を五方向に断ち割った方位石、十メートル以上の細長い立石の上に乗っている三メートルほどの巨石ーこれも方位石と思われるーなどが多数見受けられた。

    府中市の岳山
    葦嶽山から南に下った広島県府中市の標高七三八メートルの岳山には、かなり大きい多くの巨石群が見られる。
    府中市の岳山から描いた十六方位線には、東北東方位に八幡山が存在しており、岳山もまたピラミッド山だったらしい。
    昭和の酒井は葦嶽山しか知らなかった。ーので、葦嶽山を竹内文書記載の山と断定したが、これらの山も同じ備後の山である。地元の方の調査を期待したいものである。


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