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第一編 日本ピラミッド伝記
その四、青森から五葉山へ2/2

  • 五葉山
    五葉山は、岩手県釜石市の西方iにあり、住田町・釜石市・大船渡市にまたがっている。
    標高は一三五一メートル、海に近く厳しい気象条件で山頂部は森林限界を越えた高山帯になっている。
    山名の由来に、藩政時代に仙台藩が伐採を管理・制限した直轄の山だったところから、御用山と呼ばれ、その後、五葉山に改められたという。
    大船渡市の赤坂峠からがもっとも上りやすい登山口で、赤坂峠自体が標高六〇〇メートルほどある。
    登山口の鳥居をくぐると緩やかな上り坂がつづき、足元には石がゴロゴロと転がる。
    草木も生えていない賽の河原や畳三枚ほどもある畳石を経て登山道を登っていくと、山道の両脇に多くの巨石、祠が点々と存在していく。
    道程、約二時間の道のりが延々とつづく。
    昭和初期の酒井勝軍が最後に登った山が、この五葉山だった。

    酒井勝軍の登山行
    昭和十二年十一月、運命の情報が彼の玄関を叩く。
    官憲の眼を盗むように、ひそかに向かったのは東北ー、行く手には、数メートルの雪に埋まった数千尺の霊峰があった。
    この調査記録を、酒井は『神秘の日本』第十八号以降、数回に分けて掲載しているがすべて仮名で発表している。
    地名も人名も、この時分の酒井の置かれていた背景が鬼気として迫る。
    情報提供者が石川日出丸。目的地は明神台ー。石川日出丸も明神台も仮名だった。
    彼はその地で次々と奇妙な事実を発見していく。
    内宮・外宮式の環状石の残骸をいたる所に発見する。
    奇妙な神社・正体不明の墳墓が次々と記載されていく。
    だが核心に近づくと、彼の記述はぼんやりと靄(もや)がかかっていく。
    歯に衣を着せたように酒井の言葉が聴きとりにくい。意識しているのだ。
    愛読者ではなく、没収され官憲が読み手になった場合を酒井は想定している。
    それから二年後、すべての調査を完了してから酒井は初めて事実を明かしている。

    昭和十五年一月発行『神秘の日本』第三十九号。
    石川日出丸とは藤井三之丞。明治までは伝来の藤原姓ー。
    明神台とは岩手県五葉山の北山麓ー、上閉伊郡甲子村(かっしむらー現在、釜石市)のことで、その当時、藤原道長の直裔(ちょくえい)を継承する
    十九戸の藤井姓の家族が一部落を区切っていた。
    彼らが酒井の味方となった。
    調査行は、昭和十三年十月。この年酒井は六五才、しかも心臓を病んでいた。
    千三五一メートルの五葉山であった。まさに、生命を賭した登山になった。
    平成の現在ではない。鉄道が盛岡から遠野まで、ようやく開通し
    たばかりで、そこから東の土倉トンネルはまだ開通していない。
    この村へ来るのさえ山越えの道程だった。
    現在の登山道は山南の中腹、大船渡市の赤城峠まで自動車道が開け、登山者はそこから登る。
    千三五一メートルといっても半分は車だ。
    当時は違う。釜石は海岸沿いの町だ。そこから十数キロ内陸部に入っただけで甲子村の標高は高くはない。
    実質、千三〇〇メートルの五葉山ー。
    その全部が徒歩になる。しかも山は深い。それを、六五才の酒井が登る。 
    出発は十五日未明、藤井一族、屈指の十人が付きそう。山道三里(十二キロ)と酒井は記している。
    道程六時間、山腹での昼食後、十人は立木を切って蓮台(れんだい)を造り酒井を乗せて山頂まで担いで上がった。
    山頂近くに泉がある。現在ここに石楠花(シャクナゲ)荘という山小屋があり、普段は憩いの場所として、風雨時には避難小屋として使われている。

    日枝神社
    ここからが神域ー、と酒井は記す。泉で口と手を清めて、そこから歩いた。
    頂上にはすぐたどり着いた。そこに五葉山日枝神社が鎮座している。
    境内は二十メートル四方、周囲を高さ二メートル、幅一・二メートルの石垣が巡り暴風から神殿を守っている。
    本殿は六メートル四方、ピラミッド型の台の上に石造りの神祀が祀られている。
    この日枝神社の創建は、久安元年(一一四五年)といい、別名を山王権現とも称する。
    日枝神社・山王権現とは、大山咋神を祀る神社で、大山咋神とは秦氏が祀る神でもある。
    五葉山は、古来、ひのき樹が茂って昼でも暗く、猿や猛獣などが数多棲息して人を害するので登山者には危険な山だった。

    日頃市村の行泉坊泰
    円は、修験者として行も高く、衆人のためにこの難所を日吉の神夢に託し、里人を勧めて登山道を開いた。
    そして、久安元年(一一四五年)、五葉山山頂に勧請して、登山者の参拝を奨励擁護した。
    この泰円が、現在の日頃市町の五葉山日枝神社本宮の社掌・奥山家の開祖だという。
    海抜一三四一メートルの五葉山頂上にあって、百キロ先の遠海からも望み見える
    霊峰であり、航海者や一般海業者の守護神として広く崇敬を集めてきた。
    五葉山日枝神社と改称したのは明治維新のときで、その後、大正七年、関谷の聚落に近く里宮を建てた。
    これが現在の本宮であり、本宮の五葉山神社は、大船渡市側のふもとの日頃市町にあり、五葉山三社の一たる東の宮である。
    山上の本社は奥宮となった。
    祭神は、大山咋神・天照大神・倉稲魂神・大己貴神・事代主神を祀る。
  • 八雲立つ
    話を酒井たち一行に戻そう。
    付近を調査しているうちに暗くなった。一行は、日枝神社の参籠所を宿舎として夜を明かした。
    午前四時起床ー。
    黎明の中、一同は巨石群の上で日の出を拝むべく山頂を奥へと進む。頂上は広い。
    なだらかな斜面が彼方までつづき、大小の石が見渡す限り転がっている。
    音もせず景色の彼方に太平洋があり黎明の空がある。
    ゆるやかな勾配を歩いていくと彼方に森が現れた。
    その森に日出岩と名付けられた大岩の群がある。
    そこで酒井たちは、壮大な雲海のパノラマを見る。
    ー五葉山頂上から見る太平洋のはるか沖に雲の泉が噴出する。
    東天雲深く日の出は危ぶまれたが雲の泉が噴出した。

    噴き出した雲の海は溶けて流れ出すように幾千里にわたり、幾百条におよぶ大瀑布と形をかえて流れ、太平洋上をさらに雲の海と仮し、千変万化の光景
    を呈しつつ、沿岸の山脈を打っては飛龍のごとく躍り、また超えては猛虎のごとく跳び、一山、また一嶽、見る見るこれを埋め尽くして、見ゆる限り北方には青森県の恐山が
    わずかに島のごとく浮かんでいる。

    酒井たちだけを残しすべてが雲の海に包まれた。
    この光景を酒井は「八雲立つ・・・」の古歌に擬した。

      
    八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を

    酒井が、荘厳な光景の中で残したのは、この一句である。そして彼は云う。
    この光景が世界の開闢からハルマゲドンまで示されたものだと彼は云う。
    このあと彼は朝食をとり帰途につく。そのとき、頂上の泉で名残りの一杯の水を汲み、この付近に神田の遺趾が二反ほどあるのを発見したという。
    往年は神選田で祭祀用の米を作ったが、神社が廃れるとともに、米のかわりにある特種な草が生えるのを刈って束ねて来年の豊作を祈ったという。
    特種な草とは、石楠花(シャクナゲ)草の事だろうか。五葉山の頂上付近ではシャクナゲが群生し、山の避難小屋にも石楠花(シャクナゲ)荘という名が付いている。
    竹内文献によれば、高山のシャクナゲ草は不老長寿の薬草とされ、竹内家に伝わる秘伝の製法でお茶に精製し、古代の天皇が愛飲したと云われる。
    古代天皇とは、竹内文献に現れる神武天皇以前の天皇である。

    そして彼は記す。
    ー五葉山の参拝が終わり目的は見事に果たしたが、五葉山上に神武紀元と重大なる関係があったとは意外だった。
    これこそ正に、神武以前への参道を二千六百年間、かたく封鎖しておった神門の扉を開くべき神聖な鍵だった。
    これが、「神秘の宝鍵」だという。

  • 神秘の宝鍵
    このあとすぐに、「泥棒の一団は黄金の幣束を盗み去ったが、この大切な鍵は知らなかった」とつづける。
    この泥棒の一団とは、頂上の日枝神社に入ったという泥棒の伝承である。
    その数ページ前に、彼は日枝神社について記している。
    ーこの神殿は、十間四方に高さ四尺ぐらいの堅固な石垣をめぐらせて、いかなる暴風にも耐えうるようにしてあり、本殿は、三間底ぐらいのピラミッド型の台の上に石造り
    の神祠が祀られ、屋根ばかりが二百貫もありそうで神祠は聖所と至聖所に分かれ、建立当時の神扉は二尺五~六寸、横八寸、厚さ一寸余の二枚の銅板で、観音開きになっていたものが、見る影もなく破壊されて、右の一枚が石造りで間に合わせたものの、今は投げられたまま扉の役には立たない。

    何のためにこの神殿を破壊したかというと、このご神体は金の幣束であるという伝説があり、石祠が建造されたときに至聖所に奉納されていた。
    その後、何者か、少なくとも十数人の凶徒がこの屋根を剥がして盗み去った…。
    泥棒の一団とは、この記述の泥棒である。
    だが泥棒は、「神秘の宝鍵」は知らなかったと、酒井はいう。

    ー宝鍵は少なからず、この日枝神社に関係したものらしいー。
    酒井は登山行で壮大な雲海を見た。
    それを「八雲立つ……」の古歌と形容した。このあと彼は云う。
    ーこののち、学者の一団が五葉山に登頂するだろうが、この「鍵」を捜しても分かるはずはない。
    学者の一団が調査しても、鍵は見つからないとさらりと紹介する。
    そして、神武以前の正史まで汚されるから、表現の自由の権利が与えられるまで、「鍵」の正体を明らかにしないと結んでいる。

    この当時、酒井の発行本はすべて内務省の発禁処分になっている。
    竹内文献の竹内巨磨は起訴前の状態であり、酒井の周囲には常に特高警察がつきまとっていた。
    神秘の日本四十一号に至って、酒井は「神秘の宝鍵」と題して再びこの鍵に触れる。
    ここではくり返して自分だけに授かったものであり、自分以外には授かることのできないものだと、何度も強調している。 
    この四十一号の記事を見るかぎり、「宝鍵」は酒井の観念的な何かだろうと思う。  
    ほとんどの人が壮大な雲海のパノラマから酒井が受けた啓示と解釈し、その「鍵」を神秘的なものと解釈している。
    ーが、事実はそうではなく、実際に目に見える何かだったのではないか。
    「神秘の日本」は隔月刊だったらしい。三十九号と四十一号の発行には、二カ月の時間経過がある。
    この二カ月の間に、何かがあったのではないかー。
    三十九号の記述から「宝鍵」の実態が分かるような何かの出来事である。
    それが、「宝鍵」の破壊に連がる可能性があったとすれば、酒井が項を改めて「鍵」について記したのも頷ける。
    酒井はその為だけに四十一号の記事を書いているようにさえ伺える。
    「神秘の宝鍵」と題しているにもかかわらず、「宝鍵」に係わる記述がほとんどない。

    この前年、初めて発見した広島県葦嶽山の太陽石が破壊されていた。
    おそらく、官憲の仕業だろうと云われていた。

    ヒントは八重垣か…?
    「神秘の宝鍵」とは何だったのか?いま一度、日枝神社を見てみよう。
    ー十間四方に高さ四尺ぐらいの堅固な石垣をめぐらせて、いかなる暴風にも耐えうるようにしてあり、本殿は、三間底ぐらいのピラミッド型の台の上に石造りの・・・。
    神社を訪れて、どこを見て何をするかー。誰でも本殿を見て合掌し拍手する。所作は大体決まっている。
    意識するのは祀られた「本殿」、ではないか。だが、周囲を取り囲んだ「石垣」に気を留める者があるだろうか。
    この周囲を取り囲んだ石垣ー、これがヒントではないか。
    パノラマを擬した万葉集は、八重垣の歌だった。 
    八重垣つくるその八重垣…である。
    ひとつの歌の中に三回も歌い込まれた八重垣を、彼は云いたかったのではあるまいか。
    八重垣とは何だったのか……、『神秘の宝鍵』の謎を残して、昭和十五年年七月、彼は逝く。享年六七才。
    酒井の残した謎は、まだ解けていない。
  • カカコの山
    五葉山北の山麓が甲子町で酒井はこの町から山へ登った。
    この町名を正確に読める人は釜石近辺の人だけだろう。関西人なら間違いなく全員が「こうし」と読む。
    これは「かっし」と読む。
    五葉山は釜石市と大船渡市の境界にある山で、北側の釜石市側の裾野の町が甲子町である。
    ところが、南側の大船渡市側の裾野に日頃市町があり、五葉山の最も深い山懐に「甲子」という地区がある。
    この地域の古代歴史については詳細な記録がなく、明治維新後の一八八九年(明治二十二年)の町村制施行時には、北の甲子町は南閉伊郡、南の日頃市町は気仙郡に含まれて五葉山は郡の境界線になっている。
    俗に奥州と呼ぶ陸奥国がおかれた古代では最北端部の気仙郡にあたる地域で、おそらく当時は、細かな区割りはなかったと思われる。
    五葉山の名前の由来では、江戸時代の五葉山は伊達藩直轄の山で、ヒノキ、ツガなどの林産資源が豊富で藩にとって重要な山だったことから「御用山」と呼ばれた。
    これがのちに「五葉山」になったと言う。
    それ以前に何と呼ばれていたのかは分からない。
    五葉山の南北の山裾に「甲子」という同じ地名が残っている。
    このことは、その全部が同じ地名だったことではないか。
    つまり、五葉山一帯は山を中心にして「甲子(かっし)」だったのだ。
    その真ん中の山が「御用山」になったので、両端に「甲子」地名が残った。
    つまり、五葉山は「甲子山」だった。

    地名漢字は当て字である。山の名前が付いたとき、漢字はまだなかった。
    甲子山は「かっしやま」だが、「かっこやま」であり、「かかこやま」であり、「カカコの山」だったのだ。
    カカコの山にはヒヒロカネがあるはずだった。
    火炎のゆらめきにも似て比重は金よりも軽く、鉄よりも柔らかいが合金するとプラチナよりも硬くなる。
    朱く輝き、決して錆びず、刃物に合金すれば鉄をも切り、鍋にすれば木の葉数枚で湯を沸騰させる、ヒヒロカネは増幅作用を持つまぼろしの金属なのだ。
    竹内文献には、ヒヒロカネはカカコの山から産出したと記されていた。
    伝説のアトランティスには、オリハルコンと呼ばれる金属の伝承があり、それは炎の金属ともいわれ、特異なエネルギーを放射した。
    オリハルコンという言葉の意味は、「山から得た金属」…。
    この二つの金属は同じものなのか。
    酒井は、この時の五葉山登山行でヒヒロカネの原石を発見したという。
    酒井勝軍のカカコの山探索は昭和初年代のことだが、カカコの山を探したのは酒井だけではなかった。
    それが、古代の日本にいたらしい。それが、八世紀の日本書紀に記された法道仙人である。
  • 法道仙人
    法道仙人は、インドから紫雲に乗って渡来したとさる伝説的人物で、兵庫県加西市の法華山一乗寺の伝承に残っている。
    日本書紀にも記された人物で、日本で多くの山岳寺社を開基した僧として伝承されている。
    この法道仙人開基の山が集中的に存在しているのが、兵庫県の南西部であり、その地域の名称は「加古の郡」、つまり、法道仙人は「加古(カコ)の山」を探索し、寺社を開基していたのである。
    五葉山の古名が甲子山だったなら、甲子山はカコの山なのだ。
    寺社が役所の役割を果たしていた古代、法道仙人開基の寺社は鉱山開発の根拠地でもあったのかー。
    そして、法道仙人が探していたのは、カコの山で産出したヒヒロカネだったのかー。

    別名・空鉢仙人
    仙人伝承は、兵庫県南部を中心に大和地方から四国地方まで存在し、そのほとんどが六〇〇年代の伝承とされているが、そのもっとも古い伝承が能登半島にあり、紀元前のことともされている。
    法道仙人とは何者だったのかー、だが、彼の正体は実に彼の別名に記されているのである。
    法華山一乗寺の伝承には、法道仙人の別名を、空鉢(カラハチ)仙人とも呼ばれたという。
    彼の正体は、じつにこの別名・空鉢仙人に示されているのだ。
    だが、現在の日本人がこれを見ても、この名が何を意味しているのか分からないー。これを読み解くには、現在の日本人が失った古代日本人の感覚を身に付ける必要があるのだ。
    法道仙人に関わる詳細は→続・神代の残像時代が進み、全ての日本人が古代人より多くの知識を持っている・・と思っている。
    だが、事実はそうではない。

    井の中の蛙(かわず)、大海を知らずーとは、全ての日本人が知っているセリフだ。だが、こう言った本人そのものが井の中の蛙(かわず)でしかない。
    われわれは、日本の古代史についてどれほど知っているだろうか。
    歴史年表では、日本の歴史は六〇〇年代を遡ると極端に記述は少なくなる。
    ここから以前が神代の時代ー、サルしか棲んでいなかった日本列島として切り捨てたのが、現在のアカデミーの歴史学である。
    日本の神代を記した正規の歴史書として遺されていたのが、古事記であり日本書紀だった。
  • だが、これさえも神話ー御伽噺として省みなくなったのがアカデミーの歴史である。
    なぜかー、解読できないから…、自分たちでは分からないから…、
    早い話、自分の頭の悪いのを棚に上げて、古文献のせいにした。
    ーでないのなら、法道仙人=空鉢仙人で、この人物の正体が知れるはずだ。
    なぜ解けないのかー、これを考える必要があったのだ。
    この解読の軸になるヒントが、酒井の指摘した日本のピラミッドだったのだ。
    本編は、日本のピラミッドから現われたピラミッドラインを軸に日本の古代史を追って行くー。
    ーすると、現われる。
    古事記や日本書紀に記されたこれまで不明とされてきた多くの地名が、現実の場所として浮かび上がって行くのである。
    古事記冒頭のオノゴロ島・・多くの古代史家の間で奇妙な説が展開されているが、その全てはウソ話、これさえ
    事実、存在している島なのだ。古事記はその本文の中に、正確に示している。
    古事記は秘密を隠した謎の文献とも言われているが、そうではない。
    後世の学者が、真面目に読んでいないから…ということが分かって行くだろうー。


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